Alternative
瞼を上げ、頬に伝う何かに触れる。それは目から零れた温かい涙であり。マキシマは上体を起こすと目を擦った。
――昏い夢を、見ていたようだ。
どんな夢だったか覚えていない。目が覚めた時点で忘却してしまった。だけど、とても物悲しくて、それでも満たされていたように思える夢だったとは覚えていて。
「今日が年末か……」
ベッドを降り、共用らしい洗面スペースに寄ってみる。幸いか水はまだ通っていて。
マキシマは軽く身支度を整えると顔を拭きながら鏡を見つめた。ぼうっとした同じ顔が見つめ返してくる。
「……よしっ!」
パン、と己の頬を叩いて気合いを入れる。今日、支部の地下で何かが起こる。
その何かがどんなものなのかなんて、マキシマには皆目見当がつかないでいて。しかし漠然と、嫌な事が待ち受けているのではないかと疑っていた。
支部を見る度に首筋がざわざわとするのだ。何か得体の知れない存在に『ヒト』が恐怖を抱いているように。つまりそれ程の強大な力を持つ『何か』が居るのは間違いないと言っても過言ではないだろう。覚悟を決めて、進まねば。
そうしてマキシマは研究施設を後にすると上階に向かって歩き出す。天気は良好、風も爽やかに吹いている。歩くのには持ってこいの天気であった。
途中で携行食を齧りながらもマキシマは階段を上って上層を目指す。これからの事、これまでの事を思いながらもマキシマは階段を上る足は止めない。
これからどうするのか。『今まで通り』ならば今日の夜、窯の前にやって来たラグナはニューによって深手を負わされ、窯に落ちて『黒き獣』と成って生まれ、世界を終わりにする。
けれど『ソレ』を防いだのがノエルであり、マキシマであった。タイミングが、人数が、時が、奇跡を起こしたのだ。無意味に繰り返されていた事象はその先――閉ざされていた未来に手を伸ばす事が出来た。
ふむ、とマキシマは考える。覚えているのであれば、そのように誘導すれば良いのではないだろうか?
ラグナは何も言わずとも窯に向かうだろう。ノエルは――分からない。そもそもカグツチに転移してから全く姿を見かけていない。
「全く……何処にいんのよ」
支部を目指していれば会えるかも知れないと思っていたが誤算だったか? その場に立ち止まり、マキシマは顎に指を添えて思案しだす。
「あ、あの……」
もしかしたら魔操船で待機を言い渡されているのかも知れない。だったら一度ポートに寄ってみて――
「あ、あのっ!!」
キインと耳鳴りがする程の大声に思わずマキシマは耳を塞ぎ、素早く後ろへ離れた。
考えに耽っていたせいで気付かなかったのか、一メートル程離れた先には統制機構の制服を身に包んだ少女が居て。マキシマの反応に驚いてしまったのか、両手を握り込むと所在なさそうに視線を動かしている。
しかし少女はゴホンとあからさまな咳払いをすると虚空に手を伸ばし、そこから『何か』を引っ張り出す動作をした。
スルリと現れた、二丁の拳銃。それを見てマキシマは跳ねるように顔を上げると少女のところまで走っていき、彼女の肩を掴んだ。
「えっ? あ、あの……?」
「あんた、ノエルでしょ。ノエル=ヴァーミリオン! ああ良かった、あんたを探してたんだよ!」
「えっ……?」
嬉しそうに話しかけてくるマキシマを何処か怯えた様子でノエルは見つめている。しかしマキシマは楽しそうに話を続ける。
「よし、これであとは時間になったら窯にいけば良いのかな? うんうん、良い感じじゃない! なんで大規模な事象干渉が起きてるかは分からないけど、絶対帝なんて殴り倒してやるんだから! …………ノエル?」
先ほどからずっとノエルが黙りっぱなしだ。こういう時なら頑張りますの一言くらいは返ってくるものかと思っていたが。
不思議に思ってノエルの肩を離し、僅かに後退する。そうして改めてノエルの眼を見、マキシマは愕然としてしまった。
「すみません……その、貴方は……誰ですか?」
彼女の眼に映るのは拒絶・不信・忌避といった感情。
マキシマの目の前には確かに『ノエル=ヴァーミリオン』という名の少女が居るのだが、これではまるで別人のようではないか。
嘘だ、そんなのは有り得ない。引き攣った笑みを浮かべてしまいながらもマキシマは詰問をする。
「私達、窯に落ちそうになったラグナを一緒に引き上げたでしょ? イカルガではセリカやマコトを入れてみんなで買い物にも行った! 一緒に食事だってした! なのにっ、それを……知らないと、言うの?」
怯えた様子でノエルは小さく頷く。その瞬間、強く歯噛んだマキシマは踵を返すといま来た道を引き返して走っていく。その場で困惑しているノエルすらも、置いて。
一度オリエントタウンにまで戻ってきた。そして休む事なくマキシマは辺りを見回し、記憶にある街病院の扉を叩いた。中から女医のライチ=フェイ=リンが顔を出すが、マキシマの治療をした記憶は無いと言われてしまった。
カカ族の村にも来た。食い逃げ犯の片棒を担いだタオカカに会えたが、彼女にも見覚えが無いと言われてしまった。
中層部の入り口近くまで戻って来た。テイガーに会ったので、ココノエへの通信を頼んでみた。しかし見覚えのないやつに繋げるなとココノエに言われてしまったらしく、テイガーに謝られてしまった。
走る。走る。ひたすらに中層部の道を走る。
分かってしまった、理解してしまった。今まで会ってきた人々の記憶から――自分が、消えている。
死ぬ程辛い時、苦しい時もあったがマキシマにとって一つ一つが愛おしいと思える記憶さえ、皆は覚えていないのだという。
あの事象干渉はただ時間を巻き戻しただけなんかではなかったのだ。もっと重大で、緊迫した何かが起きている。それが何かは、今のマキシマでは分からない。
いま分かるのは自分と他者で認知の齟齬が起きている事と、何かとんでもない事が裏で起きているのではないかという事。
走る。走る。がむしゃらに走る。
と、その時。数メートル先に煌めく金髪が目に止まってマキシマは歩を止めた。
金糸を織り込んだかのような繊細で麗しい金髪、白と青のコントラストの制服はどうしても目を引く。彼が携える青褪めた長刀も無論見覚えがあり。
どうしよう、とマキシマが二の足を踏む。
もし彼もマキシマを知らなかったら? 拒絶されてしまったら? そんな事、耐えられない。
そんな態度を取られてしまったら――もしかしなくても、自分はここで膝を折ってしまうだろう。そして二度と、立てなくなってしまうに違いない。
だから踵を返して、静かに去ろう。そうしようとして――
「――姉さん?」
先に気づいたのは、彼の方だった。
背を向けたマキシマに柔らかな声が掛かる。そろりと振り返ると、去ろうとしているマキシマを不思議そうに見つめている義弟と目が合って。
「――っ、あ……」
もう限界だった。
声が震える。目が熱くなる。それでもマキシマは駆け出すとジンに飛びつき、胸元に顔を埋めてわんわんと子供のように泣き出した。そんな彼女の背中に手を回し、ジンは優しくその背を叩く。
「誰も……誰も、覚えてないの! 私の事も、ラグナの事もっ! 私は全部覚えてるのに、なんでっ! なんでなの!!」
それは心からの叫びだった。それを頷きながら聞き、ジンは優しくマキシマの背を撫でる。
そうして暫くした頃。落ち着いたらしいマキシマは申し訳なさそうな、あるいは羞恥心で死にたいとでも言いそうな顔をしながらもゆっくりとジンから離れた。ぐすん、と鼻を啜る。
「その……取り乱して、ごめん。ありがと」
小さく笑い、ジンは首を横に振る。
「ううん。姉さんは僕の姉で、恋人なんだから。もっと僕に頼ってくれても良いくらいさ。すぐ姉さんも兄さんも、一人で無茶をするからね」
「うっ……。ま、まあ、それはそれとして」
ごほん、とあからさまに咳をして気を取り直すと、マキシマは考え込むように腕を組む。
「どうしてジンだけが私を覚えてたんだろう」
「それは僕の中にある『秩序の力』が関係しているのだろうね。この奇怪な空間で僕だけが……いや、僕と姉さんだけが記憶を捻じ曲げられず、『正しい記憶』を保持しているらしい。この空間で僕の階級は大尉だし、『イカルガの英雄』はカグラ=ムツキだ。そして何故か、姉さんの記録だけが消えている。綺麗にね。誰も『死神』に相棒なんて居ないと言っているし、S級の賞金首を掛けられる犯罪者は史上に誰一人として記録されていない」
「そんな……」
愕然としてしまう。取り巻く環境が改変された世界の中で、自分だけが世界の外に追いやられてしまったような気持ちだ。
「姉さん、確認だけど『蒼の継承者』は知っているかい? 『神殺しの剣』は? ヤビコに居た記憶は?」
「『蒼の継承者』も『神殺しの剣』も、どっちもノエルを……ミューを指しているって事で認識に違いはない? ヤビコに居た記憶もある。私は『基部』の破壊で力を使い果たして、それから……」
そこまで言いかけ、バッとマキシマは顔を上げるとジンの両肩を掴んだ。
そう言えば、セリカに言われていたではないか。ジンは暴走したラグナによって動ける状態ではない程の重傷を負ったと。それがどうして、こんなにもピンピンしているのか。
腕や腹部をペタペタと触ってみたが、下に包帯を巻いている様子も見受けられない。その様子がおかしかったのか、ジンは小さく笑う。
「怪我の事なら心配要らないよ、姉さん。取り敢えず『今』は万全に動ける状態だから。それよりも、僕は姉さんの方が心配だよ」
「私の方も見ての通りだよ。ほら」
ジンから手を離し、腕を広げてみせる。この通りマキシマも何の問題もなく体が動く。
「私が記憶を保持してるのは、トリスアギオンが術式や魔法を打ち消すからだとして……ジンはこれからどうするの? 私はまた支部の窯を目指すつもりだけど」
「僕は……少し、人探しをするつもりだよ。それから兄さんを追うつもりだ」
「じゃあ支部で再会するかも知れないね」
ニッとマキシマが快活に笑う。大分元気も出てきたのだろう。それはジンが好きな、いつもの彼女らしい笑顔だった。
それじゃあね、と今度こそ踵を返すマキシマを呼び止める声がある。
「姉さん」
「ん?」
マキシマが肩越しに振り返る。
一瞬、言い淀んだように口を閉じたジンだったが、ニコリと笑うとマキシマを見送るのだった。
「……無茶はしないでね」
「それ、あんたもだからね」
クスリと笑い、マキシマは駆け出した。