涙声に気づかないふり

 夕暮れの雨模様の中、パラパラと傘の上で跳ねる雨音を聞きながら、一騎はのんびりと歩く。歩きながら左手で提げた買い物袋に目を落とした。その中身を見て、夕飯の食材や明日の朝食の食材で買い忘れた物は無いなと確認し、一騎は自宅である器屋に伸びる石階段に足を掛けた。
 買い物に出かける前に父親に「米を炊いておいてくれ」と頼んだものの、不安要素しか残らない。なんせ以前同じように頼んだら、あろうことか洗剤で米を洗った前科がある。他にも食べた時に芯がゴリゴリする程炊けてなかったりと、禄に仕上がった試しがない。だから今回ももしかしたら……いいや今回こそはと思いながら階段を登る。
 器屋の看板が見えてくる頃、自宅の玄関前に蹲っている『ソレ』も視界に認めて一騎は訝しみながらも、最後の階段を登りきった。
 小さな水たまりを踏みながら近寄れば人の気配に気づいたのか、蹲ってた人物は顔を上げる。やって来た人物の姿を見て、何処か安堵したように表情を緩めた。

「……おかえり、一騎」

「あ、ああ。ただいま……じゃなくて」

 違和感しかないのに、そこでそうしているのが当たり前だと言うような灯架の様子に釣られそうになるも、正気に戻った一騎は自宅の軒下に入って傘を閉じ、近くの壁に立て掛けてからしゃがんで灯架と目線を合わせた。すると灯架の全身がびしょ濡れなことに気づく。
 雨は結構長い時間降り続いている。まさか、こんなに濡れるまでずっと外を徘徊していたのだろうか。

「お前、どうしたんだよ。ずぶ濡れじゃないか」

 取り敢えずタオルか何かを用意しないと。一騎は立ち上がると、一言断りを入れてから灯架を避けて玄関の扉を開けて中に入る。
 荷物を居間に置いて脱衣所へ向かい、目に付いたバスタオルを引っつかむと直様玄関へ戻った。開けっ放しにしたままだった扉の向こうで灯架が中の様子を伺っており、その様子がまるで捨てられた犬のように見えて。

「ほら、風邪引くぞ」

 バサッと広げて灯架の頭に被せてやる。受け取った灯架は黙々と濡れた髪を拭き始める。けれどやはり体が冷え切っていたのだろう。くしゃみをし、体を震わせた灯架を見て仕方ないと一騎は頭を掻く。

「ウチの風呂と俺の服、貸してやるから……」

「良いの?」

「行く宛も無いだろ、お前」

 言ってから我ながらどうかと思う質問だったが、灯架は気分を害した様子もなく「うん」と首肯すると立ち上がり、器屋の中に入っていった。勝手知ったる我が家顔で居間に上がり、脱衣所へと向かっていく。そんな背中を見送りながら呆れたように一騎は笑い、自分も家の中に入ると扉を閉めた。
 似鳥家が春日井家程では無いにしろ、親子間の仲が冷め切っているというのは一騎や真矢達幼馴染の間では周知の事実だった。
 だから灯架が親子で出歩いている姿を一度たりとも見たことが無いし、遠見家や真壁家で食事を共にすることも多かった。故に今日のように唐突に灯架が真壁家にやって来ることは何も今回が始めてではなく。これで何回目だっけと夕飯の準備に取り掛かりながら一騎は数えようとし、数えていく内に両手の指だけでは足りなくなってカウントを止めた。
 まな板と包丁を取り出し、念の為炊飯ジャーを確認する。どうやら回数を重ねたことが功を奏したのか、それともたまたま運が良かったのか、今日は普通にご飯が炊けていた。よしと頷き、早速一騎は夕飯の準備に取り掛かる。
 切りものを済ませ、野菜を煮込み始めたところで一騎は一旦自室に戻ると適当なTシャツと長ズボンを引っ掴み、洗いたてのタオルも用意して脱衣所へ向かう。廊下を歩きながら、そう言えば下着の類は大丈夫なのだろうか――とまで考えた後、あからさまに態とらしい咳をして一騎は脱衣所の扉を開けて適当な場所に服とタオルと置いた。

「替えの服とタオル、置いとくからな!」

「はーい」

 お湯に浸かって気分も解れてきたのか、間延びした声で返事がくる。そそくさと台所に戻った一騎は手早く料理を進め、出来上がる頃には灯架も風呂から上がってきていて。ちゃぶ台に並べられていく料理の数々に目を輝かせながら灯架は座布団に座り、はたと気づいた。用意された茶碗や箸が二人分しかない。

「一騎、おじさんは?」

 お茶の入った歪な湯呑みを両手に持ちながら、居間にやって来た一騎が答える。

「少し遅れるから先に食べてろって。さっき、連絡があった。仕事の話して来るんだとよ」

「そっか」

 それで二人分しかないわけだ、と灯架は納得する。先に食べていろということは、つまりもう食べても良いと言うことと同義であり。
 期待に満ちた目で一騎を見れば、真向かいに腰を下ろした一騎が笑う。

「慌てて食べて火傷するなよ」

「うん」

 いただきます、と両手を合わせたのもそこそこに、灯架は早速箸を持つと料理に手をつけ始める。黙々と食べ進めているが、その表情は何処か嬉しそうで。
 味噌汁を啜り、一騎は呟く。

「……まあ、あれだ。飯くらいだったら何時でも用意はするから、さ」

 ボソボソとした声になってしまったが、狭いちゃぶ台を挟んだ先にいる灯架にはしっかりと届いたらしい。一瞬箸を止めた灯架は僅かに俯くと「ありがと」と囁く。

「別に、これくらいなら良いし」

 言っていて恥ずかしくなったのか、早口に一騎はまくし立てると一気にご飯をかき込んだ。