蒼穹を望む

「ねえ、似鳥灯架に会わせてよ! 此処に居るって聞いたんだ」

 休憩室に設置されたモニターからそんな軽やかな声が聞こえ、灯架は赤い目を瞬かせた。
 モニターが映しているのはアルヴィスの一室。司令官である史彦と、先日人類軍の船で島へとやって来たフェストゥム、来主操。目の見える他の者に聞けば、操はフェストゥムでありながらも人の形を成しているらしい。見た目は灯架達とそう年の変わらない少年に見えると。
 これが只の会話の中でくり出された質問であったならば驚きも小さいだろう。しかし今、モニターの向こうで行われているのは聞き取り調査のようなもので。島に来た理由や目的を聞いている途中で無邪気に言われたものだから灯架は自身の耳を疑ったし、史彦が戸惑った様子も感じ取れた。

「彼女が此処に居るというのは、皆城総士から聞いたのかね?」

「そうだよ。似鳥灯架は大事な存在だと彼は言っていた。気になるんだ、一体どんな人間なんだろうって」

 机の上で手を組む。しかしすぐに「あっ」と言うと組んだ手を解いて左右に振った。

「同化しようなんて思ってないよ。そんなことしたら、皆城総士はきっと悲しむ。それは俺にとっても悲しいことだ」

「……ただ対話を求めると?」

「うん。駄目?」

 至って無邪気な問いに困ったように、史彦は目頭を揉む。
 暫し思案し、史彦は部屋の外に待機させている者に電話を持ってくるよう頼み、持ってきてもらうと一つの番号に電話を掛けた。数秒の後、灯架の居る休憩室にコール音が鳴った。立ち上がり、音を頼りに壁際まで向かって受話器を外す。

「はい、似鳥です。真壁司令」

『事のあらましは聞いての通りだ。君が応じてくれるのなら、彼との対話に応じてほしい』

「私は、大丈夫です。それに……」

『それに?』

「総士の、名前を出した。……気になります、私も。来主操という存在が」

『……感謝する。ではこちらの部屋に――』

『ねえ!』

 操の大きい声が受話器越しに聞こえてくる。

似鳥灯架は空が好きなんだって彼が言っていた! 俺も一緒に彼女と同じ空を見たいんだ!』

『島の散策ということか。賛成しかねるが……』

「あの、だったら……」

 そうして、灯架は一つの提案をした。
 

◆◆◆

 喫茶『楽園』の窓際に置かれている四人掛けのテーブル席に座る姿がある。既に時間はお昼のピークタイムを過ぎているため『彼ら』以外には客は居らず、カウンターの奥で皿磨きをしている一騎がせいぜい居るくらいで。
 そんな緩やかな空間の中。カラン、と溶けた氷がグラスの中で音を立て、目を閉じて頬杖をついていた灯架は薄く目を開けた。そうして向かいの席で、美味しそうにカレーを頬張る操に声を投げる。

「……美味しい?」

「うん、とても! 一騎は料理が得意なんだね」

 灯架が笑みを浮かべる。幼馴染を褒められるのは少し鼻が高い。
 操が食べ進めていく様子を、視覚以外の情報で捉えながら灯架は思う。出されたカレーを美味しそうに頬張り、笑い、泣き、吠えるショコラに怯え、『空が綺麗だと思う』と楽しげに語る目の前の彼は本当に人間らしくて――とてもではないが操が人のレプリカであり、本来はスフィンクス型のフェストゥムとは思えない。

「? 灯架は食べないの? 一騎カレー」

「うん……お昼、食べたし」

「軽いもので良かったら何か作るぞ?」

「んー…………いいや、ありがと」

 皿を磨き上げていた一騎がカウンターから僅かに顔を出して灯架に声を掛けるが、灯架は首を小さく振って断った。どうやら彼女は少食らしい、と思いつつ操は残ったカレーを平らげて「美味しかったよ」と一騎に声を掛けた。小さく笑い、一騎は顔を引っ込めてまた皿を磨き始める。
 灯架はそんなやり取りに耳を傾けながら手を伸ばし、自分が注文したメロンソーダの入ったグラスに手を伸ばす。まずは指先で机に触れ、ゆっくりとそれを動かしてグラスの位置を探り、ひやりとした硬い感触がした所で掴む。一連の動作を経てメロンソーダを口にしていると、操の訝しむような雰囲気が伝わってきた。

「目が、見えないの?」

 メロンソーダを一口飲んで置き、灯架は苦笑を零す。

「うん。総士を、この島を、守りたかったから。進んでファフナーに搭乗してたら、二年前に……ね。北極のミールを破壊する作戦の前には、もう何も見えなくって」

 でも、と灯架は続ける。

「作戦の後かな。同化現象が改善される薬が出来て……それ使ったら、光と色の大まかな判別は出来るようになったんだ」

「じゃあ、灯架は空が見えないの?」

「見えなくは無い、けど……ぼんやりとしか分からない、かな……」

 だから今、操がどんな表情をしてるかも灯架には見えない。分かるのは彼が総士に似た薄茶系の髪を持つこと、背格好も似ていること、総士の制服を着ていることだけだろうか。彼の顔や姿が見えないのは残念だが、雰囲気や様子といった視覚に頼らない情報は、優れた空間認識能力で感じ取れていると言って良い。

「じゃあ、空が綺麗だと思えない?」

「ううん。私には空が綺麗に映ってる記憶があるから、空は綺麗だと今も思えるよ」

 間髪を入れずに答える。目を瞑れば今だって思い出せる。澄み渡る蒼穹と、その合間に浮かぶ白い雲。そして竜宮島から臨める綺麗な海の色鮮やかな光景。
 だというのに、目の前の彼は浮かない雰囲気であった。僅かに灯架は首を傾げる。

「でも、一緒には見れないだろう? 俺が綺麗だと思った空を、灯架にも見てもらいたいのに……」

「ああ……」

 確かに、現時点で操が『綺麗だ』と思った空を灯架に見せても彼女にはぼやけた世界でしかない。彼女の共感は得られない。
 操は暫し考え込む。灯架はその間大人しくグラスを傾けており。

「やっぱり、一騎にも灯架にも空を見てもらいたいよ」

「操……?」

 独り言のように、あるいは自分に言い聞かせるように操は呟くが、灯架が聞き返せば「なんでもないよ」と笑う。

「ねぇ、灯架はどうして絵を描くの? どうして空が好きなの?」

「どうして、かあ……」

 クリームソーダに浮かんだバニラアイスをストローでつつく。

「……手近な場所に道具があったっていうのもあるけど、多分私が『私』を表現する手段……だったんじゃないかなって、思う。私、喋るのが得意じゃないから。でも私が良いなって思ったことを描いて、誰かが見て、同じように良いなって思ってくれたら、それは一つのコミュニケーションだと思うの。気持ちの共感、っていうか」

「俺が空が綺麗だって思うっていう質問に、灯架が肯定してくれたのと同じだ!」

「そうだね」

 共感、共有。
 そういった感情を一番分かりやすく説明出来る手段が、灯架にとっては絵画であった。嬉しい気持ちも、悲しい気持ちも、口で説明するより断然楽だ。

「空は……ううん、空だけじゃなくて海も、山も、山から見える竜宮島の景色も、全部好きなの。好きだから、私は描いてる」

「好き……君たちが自分ではない他者に好意を向けること。君たちはそうして好意を向けた人物と生殖行為をして子孫を残していくんだよね」

「う、うん。そうだけど……自然とは流石にしないかな……」

 苦笑を零す。グラスの表面に浮いた水滴が手を伝うのを感じながら、小さく灯架は呟く。

「操は、総士と会話したんだよね」

「うん。今は俺たちの下で存在を取り戻そうとしてる。取り戻せると良いね」

 ほう、と息を吐く。少なくとも極めて危険な状況ではないようだ。それを見逃さず、頬杖をついた操は問いかける。

「総士が好きなんだ?」

「うん。一番大好きで、一番大事な人」

「それ、総士も言ってた」

 クスリと笑う。まさか、そんなことを総士が話していたなんて。ぱちくりと灯架が目を瞬かせる。

「さっきも言ったけど、凄く大事な存在なんだって彼は言ってた。島が『守らなくてはいけないもの』なら君は『守りたいもの』なんだって」

 使命感と彼自身の意志。そこの境は明確に割れていて。
 あの総士が、自分を。彼の意志で決めたと。それだけ特別だと感じてくれているのだと思うと、嬉しくて言葉が出てこない。少し目頭が熱くなって目を擦った。
 俯いた灯架に「どうしたの?」と操が声を投げてくる。ぐす、と鼻を啜った灯架は顔を上げる。

「ううん、なんでもない。大丈夫。……ありがとう、操。総士の言葉を届けてくれて。そろそろ行こっか、島を案内するよ」

「やったあ!」

 無邪気に喜ぶ操に、自然と笑みが零れる。奥に居る一騎に声を掛け、灯架は操と共に楽園を後にする。
 楽園を出、空を見上げる。操の仲間が奪ったという空は、暗雲が立ち込めていて蒼穹が見えないが――

「総士が戻ってきた時、いつもの空だったらいいな」

 あの青空の下で、総士を迎えられたら良いなと。そう願うのだった。