おかえり

 深海から海面へ浮上するように、ゆっくりと意識が浮上する。
 そうしてまず灯架が取り戻した感覚は痛覚だった。まるで高いところから落ちて全身を打ったような激痛に顔を顰める。いや、比喩じゃなかったなと回らない頭をなんとか動かし、灯架は意識を失う前のことを思い出そうとした。
 そうだ、確か操が空母ボレアリオスに根付いたミールの意志に逆らえずに暴走してしまい、封印されていたマークニヒトを喚んで乗ってしまったのだ。
 そうして操は島を攻撃しようとし、それを防ぐために灯架や一騎達でファフナーに乗って迎え撃った。そこまでは覚えている。だがマークニヒトの圧倒的な力に敵うはずも無く、自分は機体ごと上空から地上へ叩き落とされたのだったか。そしてその衝撃で意識を失ったのだろう。コックピット内が薄暗いのも意識を手放したせいで全電力が停止したからか。
 痛みを逃がすように灯架は一度大きく息を吐き、そして接続したままだった『ニーベルングの環』から十本の指を抜くと背もたれに体を預ける。どれくらいの間意識を失っていたのか分からないが、灯架が意識を取り戻したと分かれば自動で機体が格納庫へ戻るなり、電力が復旧してCDCから連絡があるなりがあるだろう。戦闘がまだ続いているのなら戦線に戻るまでだろうし。
 そんなことを考えながら暗いコックピットの天井をぼんやりと見上げていると、ゴトン、と物音がした。弛緩しきっていた体に緊張が走る。
 その音はまるで、外側から誰かがコックピットを開けようとしているかのような音だった。灯架が重傷を負って格納庫に機体が戻された時、メカニックの人達が大慌てで扉を開けようとした時のソレと似ている。
 まさか、一騎か後輩の誰かが反応の無い灯架を心配に思って様子を確かめに来たのだろうか? 背もたれから背を離した灯架は今にも開きそうな扉を見上げる。
 ややあって、ガタンと派手な音を立てながら扉が開かれた。それと同時に太陽光がコックピットに入ってきて、暗がりに慣れていた灯架の目が眩む。思わず顔を伏せて片手で目を擦っていると、声が掛かった。その声が耳に届いた瞬間、灯架の体が硬直する。

 だってこの声の主は、今この竜宮島に居ない筈の人物で。
 二年前、北極で散った筈の人物で。
 それでも尚、必ず竜宮島に帰ってくると約束してくれた人物で。
 灯架が二年間ずっと想い続けていた、一人の少年のモノで。

「――彼から、伝言がある」

 ああ、ぶっきらぼうで少し固い口調も、灯架が大好きな低い声音も変わっていない。まるで北極で別れた時から止まっていた時間が動き出したかのように、ずっと塞き止めていた想いが決壊してしまったかのように。涙として形になったソレは灯架の頬を伝う。

「『灯架は空を綺麗だと言ってくれた。だけど自分が綺麗だと思った空を一緒には見れない。それが悲しいから、少し灯架の目に細工をしてしまった。嫌だったら、申し訳ない』……と」

 見上げれば、逆光で黒いシルエットとなっている少年から手を差し出されている。迷わず灯架も腕を伸ばし、彼の手を握り返す。人らしい温かさを感じ、灯架は空いている手で涙を拭うと静かに笑った。
 そして少年の姿を見ようとしたその時――ほんの一瞬、くらりと目眩を感じて灯架は目を押さえた。まるで度の合わないメガネを掛けえてしまった時のようだ。
 ふらりと倒れそうになったが、灯架の手を掴んでいる少年の手が支えになってなんとか踏ん張る。
 そうして再度顔を上げ、灯架はコックピットの外を見上げる。操の『細工』とは、灯架の同化現象による失明を緩和させたことなのだろう。お陰で今度ははっきりと見える。灯架の機体の上に立ち、自分の手を握っていてくれている少年の姿が。その向こうに広がる、果て無き蒼穹が。
 万感の想いを乗せて、灯架が口を開く。

「……おかえり、総士」

 精一杯笑って、この二年間で一番言いたかった言葉を紡ぐ。
 姿は最後に目にした時から変わっていない。薄茶の長い髪も、左目に走る切り傷も、背格好も、全部。
 灯架の腕を引っ張ってコックピットの上へ引き上げ、ほぼ同じ高さの目線になった少年――皆城総士は僅かに微笑む。

「ああ。――ただいま、灯架

「本当に、総士……なんだ」

「来主操が、僕という存在を守ってくれた。僕が島に帰って来れたのも彼のお陰だ」

「っ、総士……!」

 思わず抱き着き、それを受け入れた総士は灯架の背に腕を回す。精一杯笑ってみせても溢れてくる想いが消えたわけではない。しゃくりを上げながら泣く灯架の背を、総士や優しく叩く。

「帰ってくる、って……必ず戻るって約束したから待ってたけど……っ! それでもやっぱり不安で、寂しくてっ……!」

「それでも、お前はこの島を守ってくれた。だから僕は、竜宮島に帰ってくることが出来たんだ。感謝している」

「……竜宮島は、総士の帰ってくる場所だから」

 ひとしきり泣いて漸く収まってきたのか、スンと鼻を啜った灯架は目元を赤くした目を擦った。
 少し間を置き、小さく呟くように総士が口を開く。

「……灯架の居る所が、僕の帰る場所でもある」

「……総士……」

 目を擦るのを止めた灯架は少し驚いた様子で顔を上げ、総士の顔を見やる。見上げた総士の頬は僅かに朱が差していて。
 ゴホン、とあからさまな咳をした総士は灯架を引き離すともう一度手を取り、灯架をエスコートするような形で停止した十四番機から降りた。ザクリ、と深く砂を踏んだ感触がする。
 そう言えばと灯架が周囲を見回せば、そこは竜宮島の浜辺だった。少し離れた所には灯架の機体と同じく停止しているマークザインが見えて。森も、その向こうにある家屋の数々も、雲の浮かぶ真っ青な空も。全部見える。

 ああ――本当によく見える。

 ボレアリオスミールの元へと還った操に心の中で感謝を述べながら、灯架は『見える』ことの有り難さと嬉しさを噛み締める。

「――どうだ。今日の空は、よく見えるか?」

 手を握りながら、何気ない調子で総士が尋ねてくる。灯架はしっかりと頷き、握る手に力を込めながら呟いた。

「うん。とても綺麗な空が見えるよ。広くて果てのない、一番好きな蒼穹が」

 空いている手を空へと伸ばし、灯架は笑った。