いい夢は見られたか?
「おい、灯架」
誰かが自分を呼ぶ声がする。沈んでいた意識を浮かせ、目を開けた灯架は周りを見回して数度目を瞬かせた。
喫茶『楽園』の、窓際の席から一つ店内側のテーブル席に腰掛けていた灯架は声のした方へ視線を向ける。
正面に見えるカウンターの向こうで、自分を不思議そうに見ている一騎と目が合った。瞬間、どうしようもなく違和感が胸中に渦巻いて灯架は眉を顰める。当たり前のようで、決定的に何かが違う。違和感を覚えるがそれが何なのかが分からず、もやもやとしたものを抱えながら灯架は一騎の名を呼んだ。
「一騎……?」
「研究疲れか? ウトウトしてたぞ。紅茶、冷めても知らないからな」
「え? あっ……」
皿を拭き上げながら一騎は苦笑いする。慌てて視線を手元に落とせば、湯気の薄くなった紅茶が置かれていて。
納得の行かないまま、灯架はカップを両手で持って口に運びながらチラリと作業中の一騎を盗み見た。一騎が動く度、肩に掛かる程の黒髪がさらさらと揺れ動く。
――あ、と灯架が気づく。
「一騎……髪、切らないの?」
「髪? ああ……」
拭いていた皿をシンクに置き、空いた手で一騎は己の髪の先を指で摘むと眉を下げて笑う。
「これも俺の一部だって思うと、切る気がしなくてな」
「そう、なんだ……」
曖昧に笑いながら、違う、と脳が拒絶する。
灯架の知る一騎は髪を切った筈だ。その後、紛れ込んでいた人類軍のスパイが一騎と総士を狙って暗殺未遂を起こし、そして――
「おっす一騎。やってるか?」
軽妙な声と共に後方の扉が開き、バラバラと複数人の足音がする。
この声は。いやそんな筈は、と思いながら灯架はぎこちなく振り向く。
「先輩、居酒屋じゃないんですから」
「そうよ、僚。全く……毎回同じやり取りして」
「僚先輩と……祐未先輩……?」
片や楽しげに、片や窘めながら楽園に入ってきたのは一つ上の先輩である将陵僚と生駒祐未であった。あまりの事態に灯架は愕然としてしまう。
「だって……先輩達は『L計画』で……」
一騎や灯架達がファフナーに乗る半年前に実行された『L計画』。竜宮島本島のL区画を切り離して囮とし、襲来するフェストゥムを撃退していく。そして作戦期間の六十日を終えた後に全員がボートによって竜宮島に帰投する計画――だった。
全員が帰らぬ人となり、最後まで生き残ったと思われる僚の乗っていたファフナーの音声データとその機体の残骸だけが竜宮島に流れ着き、作戦中に起きた惨劇と、それでも生き抜いた者達を語っていて。その音声データを、一度だけ灯架も聴かせてもらったことがある。
たった半年だけの時間稼ぎにしかならなかったが、それでもその半年という期間は竜宮島の島民達に多大な成果をもたらしていた。この期間が無ければノートゥング・モデルは完成しなかっただろうし、海底でフェンリルを発動した痕跡から『フェストゥムが海水にも順応した』というのが分かり、それの対処も出来た。
僚たちに平和を譲ってもらったからこそ、今の自分達が居る。
だからこそ――この場に彼らが居るのが理解できない。二人はあの計画で『居なくなった』筈だ。しかし僚と祐未は話しながら灯架の隣の二人掛け席に座り、灯架がいることに気付くと手を振る。
「おっ、灯架も来てたのか。どうだ? 研究の方は」
「あ、ええ、と……順調、です。僚先輩は元気そうですね」
きっとぎこちない笑みを浮かべているんだろなと思いながら灯架は挨拶に答える。と、僚はきょとんと目を丸くし、祐未は口元に手を当てて小さく吹き出した。
「ほんと、毎日毎日元気でこっちが疲れちゃうわよ」
「酷いこと言うな、お前」
僚が唇を尖らせると、祐未はすまし顔で答える。
「だってそうじゃない。プクの散歩だって言って毎日島中駆け回って」
「駆け回って……?」
僚は重度の肝臓病を患っていた筈だ。走るどころか少し動くだけで酷く肝臓が痛む程の。その僚が、走る? 違和感は消化されていくどころかどんどんと積もっていく。
流れが悪い方向に向かっていると察知したのか、僚はカウンターの向こうのキッチンに居る一騎に声を投げかける。
「そう言えば一騎。今日は店員居ないんだな」
黙々と皿を拭いていた一騎が答える。
「暉は休みで、遠見は航空の訓練です」
「最近は羽佐間も見学に行ってるんだろ? 大分、体調が良くなってきたみたいだな」
安心そうに笑う僚に、一騎も微笑んで応えてみせる。しかしそんな中で灯架だけが腑に落ちないと言いたげな表情をしており。羽佐間と言えば思い当たる人物は三人該当するが、今回は一人に絞られてくる。
灯架達の同級生で『マークゼクス』のパイロットであった羽佐間翔子、彼女のことだろう。
しかし彼女は四年前、まだ灯架達がファフナーパイロットに選ばれたばかりの頃にフェストゥムを連れて空で散った筈であった。なのに一騎と僚の口ぶりではまるでそのことが無かったかのようで。……まるで翔子が生きているままのようで。
「何が、どうなってるの……?」
灯架の困惑は誰に届くことなく霧散していく。
居なくなったはずの者が当たり前のように居て、笑って、生きている。誰もが望んだ結末で、まるで――それは、夢のような世界で。
そんなことを思っていると楽園の扉が開き、新たな客がやって来る。その姿を認めて一騎は少なからず嬉しそうな顔をした。一騎がこんな顔をする時は大抵『彼』が来た時だろう。そんな確信を込めながら灯架が振り向くと、ああ、やっぱり。
「なんだ、もう来ていたのか。灯架」
カツカツと靴を鳴らしてやって来たのは、紛れもなく総士であった。総士は灯架の正面の席に座るなり、僅かに疑問そうな顔をする。
「どうした。僕の顔に何か付いているか?」
「え、あ、ううん。何にもないよ」
「さっきからそんな調子なんだよ、こいつ。あんまり研究させすぎるなよ総士」
「……善処します」
からかい混じりの僚の指摘に総士はため息を吐く。自分もそれについては何度も苦言を呈しているが、本人が聞く気がないんだとでも言いたげだ。
そうだ、と灯架は疑問に思っていたことを口にする。
「ねえ総士、フェストゥムって……」
「フェストゥム?」
注文したコーヒーが目の前に置かれ、それに口を付けていた総士は不思議そうに両目を見開いた。
「久しぶりに聞いたな、その敵の名を。研究で何か上手くいかないことでもあるのか?」
「……あいつらからの襲撃が無くなってもう四年か」
カウンターに戻りながら、一騎が小さく呟く。
四年前と言えば。総士がフェストゥムによって北極に連れ去られた頃か。確か、あの時は一騎と真矢で北極ミールを破壊し、全てが終わったかのように見えた。
しかし――
「ああ、お前と遠見が北極ミールを破壊してくれたお陰だ。だからこそ、僕たちはいま平和を謳歌しながら、次世代で戦いが起きた時に備えて研究をしている」
「そういえば、そうだったな」
小さく笑い、一騎はまた皿を拭く手を動かし始める。
そう、フェストゥムの襲撃はそれっきり無いのだ。手元に視線を落とし、カップに浮かぶゆらゆらとした波紋を見つめながらぼんやりと灯架は思案に耽る。
「……フェストゥムは、もう来てない」
「ああ、島は奴らに感知されていない」
「総士も、此処に居る」
「……何を当たり前なことを。当然だ、僕は此処に居る。前に言っただろう、僕は島のコアの許しが無い限り竜宮島から出ない。……四年前の戦いの時は一度も出ずに終わった。だから僕に今後、島を出る機会など早々ないだろう」
「……そっか」
「……今日のお前は変だな。本当にどうしたんだ?」
具合が悪いのか、と総士に額に手を伸ばされたが、灯架はそれをやんわりと断ると紅茶を一口飲み、小さく笑う。
「ふふっ。何か、凄く平和だなって思っただけ」
「一騎や灯架達が戦い、勝ち取った平和だ。だからこそ、僕はその平和に感謝している」
コーヒーを口に運ぶ。灯架も紅茶を飲み、互いの作業の進捗や最近あった話、他愛のない話を交わした。ひどく穏やかで緩やかな時間が流れていく。
暫く談笑した後、時計を見た総士はコーヒーを飲み干し、席を立つ。そんな総士の背中に一騎は声を投げた。
「なんだよ、今日は食べて行かないのか?」
「少し休憩しに来ただけだ。……? 灯架、行かないのか?」
「あっ、えっ、と、うん!」
慌てて残っていた紅茶を飲み干し、その間に会計を済ませて出入り口の扉の前まで向かっていた総士のところまで小走りで行き、まだ残っている僚と祐未、そして一騎に手を振ってから灯架は総士と共に楽園を出た。
扉を開け放つとサワ、と涼やかな風が灯架の髪を撫でていき、青々とした草木の香りが鼻をくすぐっていった。初夏の香りだな、なんて思いながら総士の隣を灯架は歩いていく。
穏やかに波が打ち寄せる砂浜を眺めながら、ポツリと灯架が呟いた。
「……本当に、穏やかで、平和で……幸せな、竜宮島」
「ああ、そうだな」
それに応える総士の声と表情はとても穏やかで。
「だから、ほんの一瞬だけだけど錯覚しちゃった」
タン、と一歩踏み出して総士の前に出、振り返って彼を見る。歩を止めた総士の視界に映った灯架は涙を堪えるように笑っていて。
「ここが夢じゃなくて現実で、私のなかで現実であったものこそが夢だったんじゃないかって。でも、それはきっとただの『逃げ』なんだなって気づいて。どんなに今が辛くても、険しくても、『今』から逃げたら『未来』は見られない。それはもしかしなくても、逃げることよりも辛いことになるから」
灯架が笑う。ぽろり、と目の端から涙がこぼれた。
「私、戻らなきゃ」
「どこへ?」
総士の問い掛けはとても穏やかだ。
「私が戦わなきゃいけない場所。私が守らなきゃいけない場所」
「そうか。……灯架」
「なぁに?」
「いい夢は見られたか?」
灯架は目を数度瞬かせ、満面の笑みを浮かべる。
「うん。すごく、平和な夢だった」
「そうか。それなら、良かった」
総士が穏やかに微笑んだところで視界が暗転し、意識がプツリと切れた。
しかしすぐに意識は浮上し、感じたのは総士が自分の名を呼んでいる声と肌寒さだった。体を震わせ、目を開けた灯架は周囲を見回した。
「……輸送機の中……」
「先程移動を開始したばかりだ。次のキャンプ予定地に着くまでは時間が掛かるだろう」
そう言われて段々と意識がはっきりとしてきた。
そうだ、自分達は今ハバロフスク・エリアに向かって北上している最中だった。その中でもフェストゥムは幾度かあり、灯架もファフナーに乗って出撃していた。倦怠感を覚えるのは度重なる戦闘の疲れなのだろう。どうやら隣の席に座る総士に寄りかかって寝ていたらしい。掛かっている毛布は彼が掛けてくれたものだろうか。
ずり落ちかけていた毛布を肩のところまで引き上げ、灯架は再び眠る体勢になる。
「ねえ……総士」
「何だ?」
微睡んだ声で灯架は問いかける。
「総士の思う『平和な竜宮島』って、どんなの?」
「僕の考える? ……そうだな」
語りだした総士に聞き入るよう、灯架は瞳を閉じた。