THE FOLLOWER2

 サラサラと筆を走らせる。淀みなく白いキャンバスの上を動く様子は、絵を描いていると言うよりも『キャンパスの中に沈んでいる絵を浮かび上がらせている』と言った方が近いかも知れない。
 ふう、と一息吐いた灯架は背もたれに深く背中を預けた。そうして時計に目をやる。二十三時だ。思考を切り替えるためと気分を落ち着けるために夕食を摂ってから筆を握っていたが、随分と集中していたらしい。凝り固まった肩や首を解すように灯架はぐるぐると腕を回す。
 元から好きな時間に好きなだけ絵を描いていたが、十七の時に実家である『似鳥画材店』を出てからは更に自由になっている気がする。好きなタイミングで食事や家事をし、空いた時間を絵やファフナーの開発に当てられる。……まあ、時たま没頭しすぎて食事を忘れて、総士に楽園へと連行されたりするのだが。
 それに何より、年々居心地の悪さを感じるようになってきた家だ。最低限の衣食住は提供してくれるものの、家族らしいことの一つも無く、ファフナーパイロットとして以外を求められない家など、出た方が気楽だと気付いた。
 そう気付けるようになったのも、幼馴染だけの小さなコミュニティから一歩足を踏み出し、色々な人と対話したり見たりしたからだろう。
 ――変わらぬものの美しさと良さというのも確かに存在するが、変わることに怯えてはいけない。変化と進化を選んだ先に、未来があると学んだ。
 世界は想像よりも大きく、広くて。目の前に広がる大海はとてもじゃないが一人では泳ぎ切ることが難しい。
 だけど、総士がいれば――総士が居てくれたら、きっと泳ぎ切ることが出来る。空だって翔べてしまうだろう。
 そんなことを考えていれば、眠気が押し寄せてきて欠伸が漏れる。少し早いが、寝支度するのも悪くない。明日は新国連との交渉に向けて作戦会議をするのだから。
 と、その時。固定電話が音を立てて灯架の意識がこちらに引っ張られる。こんな時間に誰だろうと思いながらも灯架は椅子から立ち、電話へと向かう。

「はい、似鳥です」

『よっ、似鳥。夜遅くに悪いな』

「――!?」

 目を見開く。思わず受話器を取り落としそうになってしまった。
 だってこの声は、電話口から決して聞こえない人の声だ。これは、随分と前に自分たちに平穏を譲って居なくなった人の声だ。
 この声は――

「将陵、先輩……?」

 電話の向こうの『誰か』が微かに笑う。

「久し振りだな、似鳥。元気だったか?」

「だって……先輩は既に……」

 灯架がハッとする。

「島のミールが……私に何か伝えようとしてる?」

 死者は蘇らない。我々は死者の上に立っている。砂時計を逆しまにしたって時間は戻らない。
 ならば考えられる可能性は一つ。島のミールが姿を象って接触しようとして来ているのか。

『準備が出来たら、家から出てくれ。俺はそこで待ってるからよ』

「え、準備、って……」

 通話が切られてしまう。はて、何か準備など必要なものがあるのだろうか? 小首を傾げながら灯架は受話器を置き、特に持ってく物も無いなと思って手ぶらで玄関へと向かい、靴を履いて扉に手を掛けた。
 開け放った先を見て、灯架は己の目を疑う。

「海の……中……?」

 玄関を開けた先に広がっていたのは、僅かに月光が差し込む宵闇の海の中だった。慌てて背後を振り返れば玄関の扉は魔法のように消え失せていて、暗い海がそこにあるだけだった。
 不思議なことに呼吸はちゃんと出来る。まるで夢の世界のようだと思いながら灯架は周りを見回す。
 暗く、どこか僅かに寒い海中。差し込む月明かりのお陰で朧気ながらに把握出来る海中の様子は、まるで時が止まっているかのように全てが静止している。揺蕩う海藻も、優雅に泳ぐ魚も、全てが動きを止めていて。
 まるで写真でワンシーンを切り取ったかのような風景。見る者によっては美しいと感じられるかも知れないが、また見る者が変われば悍ましさすらも感じ取ってしまうだろう。
 いつ終わるか分からない一瞬は永遠と同義だ。永遠に静止した世界。色褪せることのない不変の世界。そんな世界を、灯架は見たことがある。

「私の、心象世界……」

 メディテーション訓練で見た、自分の心の中の海。どうしてこんな場所に……と思っていると、砂を踏む音がして灯架は振り向いた。

「お前は世界をどう祝福する? 似鳥

「……僚、先輩」

 振り返った先に佇んでいたのは、在りし日の彼。少しだけサイズの合ってない制服に身を包んだ、将陵僚だった。

「俺たちは、お前たちに三つ聞かなきゃならない。
 一つ目は、新たに芽生えさせた力の代償についてだ。お前は、力の代償が自分自身の命だった時、どうする?」

 現れた僚は灯架の前へ歩いて回り込み、まっすぐに見てくる。
 その答えは、既に決まっていた。負けじと正面から僚を見据えた灯架は凛と言い放つ。

「それしか方法が無いなら、私は自分の命を使います。だってそれは、皆も選んだ道だから」

「だったら……力の代償がお前と、お前以外の人間の命ならどうする? 力の代償が他人の命だった場合、似鳥はその力を求めるか?」

「……、それは……」

 他人の命。そう聞いて真っ先に思い浮かんだのは総士の顔だった。
 総士を犠牲にしてまでもと言うのだろうか。それとも、シュリーナガルからの脱出行で犠牲になった人々を指しているのだろうか。竜宮島の人々かも知れない。
 答えあぐねていると僚が肩を竦める。

「誰か、は重要じゃない。お前たちが芽生えさせた力によって、誰かが犠牲にならなきゃいけないことも受け入れる必要があるってことだ」

「私、は……」

 灯架は顔を上げる。

「……それが、未来へ繋がる対話を求める力を守るためなら、それを選びます。それが、先輩たちが譲ってくれた平和を捨てることになっても」

「それは、島を捨てるってことか? 俺や祐未、羽佐間たちが犠牲になって作り上げた理想郷を壊すことになるんだぞ」

「違います! 私たちは、閉じこもってちゃいけないんです。対話を否定していたら、未来には辿り着けないんです!」

「そのために大勢死んでもか? 仲間を守るために敵意を向けてくる奴らを倒すのとどう違うんだ?」

 僅かに俯き、灯架は体の横で強く両手を握る。

「守らなくちゃいけないのは、対話の可能性です。
 ……島を出て、シュリーナガルから竜宮島に合流するまでの旅で、知ったんです。私には、戦う力しかない。美羽やエメリーみたいにアルタイルと交信なんて出来ないし、一騎や総士みたいに圧倒的な力も無い。だけど、対話の力を守って未来にバトンを繋げるくらいは出来ます」

 長く、辛い脱出行で見た。知った。そして考えた。
 竜宮島楽園の外はいつだって死と隣合わせで、非力で戦う手段の無い弱い者から淘汰されていく。悪意はどこまでも追って来て、疲弊して行く一方で。
 指の隙間から砂が零れるように、守るべき命が零れていく。命を賭して、拮抗薬が切れても尚戦い続けながら何度も考えたのだ。 
 突き詰めて考えても、似鳥灯架という人間はただの『人間』だ。特筆出来るほどの力は無いし、それでなくともこの体の『生存限界』はもう間もなくだ。風前の灯火と言っても過言ではない。
 だけど、そんな体でも未来にバトンを託すことは出来る。対話出来る力を持つ人間を、守ることくらいは出来る。
 だからこそ……。

「だから――私は自分の命を使う道を選びます。そして、未来へと導きます」

「それは、総士に言われたからか? あいつがそういう風に生きると決めたからか?」

「……それは、あると思います。総士が、私の生きる理由だから」

 彼がそう命じることはないだろうし、望んで殉ずる気もない。
 だけど――総士が望むのなら。生きて未来に繋げと言うのなら。進んでこの命を燃やして全てを託そう。

「――それが、お前の選択なんだな」

「……え」

 ザザ、と波が引いていく音がする。慌てて周囲を見れば、海が左右に割れて砂浜の道を覗かせているところだった。そのスケールの壮大さに灯架は暫しぽかんとしてしまう。
 まるでモーセの海割りを見ているかのようだ。見入っているとどんどんと海は割れていき、遠く遠くへと続く砂の道を生んでいく。先程までは月明かりしかなかったはずなのに、今では星々が瞬いて薄暗い道を照らしていた。 

「痛みは皆城総士の祝福だ」

 ザリ、と砂を踏んで僚は一歩歩き出す。そうしてゆっくりとした歩調で灯架の周りを回っていく。

「命は皆城乙姫の祝福だ」

 ザリ、ザリ、ザク。音が止まる。
 灯架が顔を上げる。正面には、穏やかに笑いかける僚が居て。

「お前は世界をどう祝福する?」

「私も……世界に祝福を与えることが出来るの?」

「それはお前の選択次第だよ。世界を祝福すれば、お前は生と死の循環から外れ、強大な力を得ることが出来る。だけどそれを選べば、お前は人として正しく死ねなくなる」

 僚が道を指差す。そちらに目を向ければ、遠い道の先は二手に分かれていて。
 きっとそれが、僚の――島のミールの示す道なのだろう。人として枷を外すか、人として死ぬか。

「これは、今選ばなきゃいけないんですか?」

「いや、今選ばなくても問題は無い。これはあくまで提示だからな」

 だけど、と僚が前置きをする。

似鳥はいつか、必ずこの道のどっちかを選ぶ日が来る。選ばざるを得ない日が来る。その時お前はどっちの道を選ぶんだろうな」

 ほら、早く行けと僚が促す。名残惜しそうに足を踏み出すのを躊躇っていた灯架だが、グッと一度唇を噛むと僚に背を向け、一歩足を踏み出す。
 一歩、二歩。タタタッと軽い歩調で駆け出した灯架は、走りながら一旦くるりと反転して振り返った。
 大きく手を上げる。月と星の瞬く空の中でも、彼に見えるように。

「――行ってきます、僚先輩!」

 遠くなった僚は、微かに笑っていたような気がして。





「……ん……あれ……」

 カクリ、と頭が大きく船を漕ぎ、その衝撃で灯架は目を覚ます。いつの間にか眠っていたらしい。
 時計に目をやる。最後に時計を見てから十分ほどしか経っておらず、移動した形跡もない。念のため電話の履歴も確認してみたが、非通知や将陵家から掛かってきた履歴も無かった。
 ただのうたた寝のような束の間の時間。しかしあの問答の時間は、確かに存在したのだという確信がある。あれはミールとのクロッシングを夢として見ていたのだろう。

 犠牲を乗り越え、未来へと進むための道を選び取った。それは精神の変貌を受け入れるということで。
 不変を望みながらも、何も変わらないままじゃいけないと変化を望む心。相反するその二つを抱きながら、いつかはこの古き因習を打ち破る日が来るのだろう。
 ……それが明日か、もっと先かは分からないが。
 その時はきっと、迷わずに選び取るのだろう。悔いのない選択を。そうして未来へ歩きだすのだろう。

 蒼き青春に、別れを告げるように。