薄明に希望を灯す

 ――目を開ける。そこは真っ暗闇の空間で、まるで水中に浮かんでいるような浮遊感がある。しかしそこは暖かくも寒くもなく、呼吸も問題なく出来て。
 夢、だろうか。それとも島が見せているクロッシングの心象風景なのか。
 周囲を見回す。闇ばかりで何もない。側に誰もおらず、灯架一人だけがその場所に投げ出されたかのような事態に思わず総士を探してしまう。しかし手を伸ばせども掴むのは虚空だけであり。
 一気に不安が込み上げてくる。ずっとこの場に留まって何処にも行けないんじゃないかという不安ではない。二度と総士と出会えなんじゃないか――そんな不安で。
 それが途轍もなく怖くて。灯架は固く目を閉じ、ぎゅっと己の体を抱く。

 ――灯架

「……総士?」

 自分の名を呼ぶ、この柔らかな声は。瞼を持ち上げた灯架は己を抱いていた腕を解き、もう一度周囲に目を向ける。すると少し離れた先に一番愛しい人が自分と同じように揺蕩っていた。

「総士!」

 水中を泳ぐ要領で空を蹴り、総士の元へ行こうとする。けれども一向に総士の近くに寄れる気配がない。寧ろ進もうと藻掻くほどに距離が開いていくような錯覚さえ覚えてしまう。

「お前はまだ此方に来るのは早い。生きて、未来を繋げるんだ」

「どうして、どうして……っ!? 嫌だよ、私もそっちに行く! 総士の側にずっと居る!」

 鼻の奥がツンとし、止めどなく涙が溢れてくる。涙も拭わずに叫ぶ様子は、子供が駄々をこねるそれと何ら変わらなかった。
 ああ、『その時』が来てしまったんだ。分かってしまう。総士の『生存限界』が来てしまったことを。
 だけど、そうだとしても認めたくないじゃないか。側に居ると約束してくれたじゃないか。だったら、一緒に連れて行って欲しい。もうこの生命は十分に燃やしたのだ。此処で消えようとも悔いはない。
 しかし総士は緩やかに首を横に振り、穏やかに笑いかける。

「僕は今度こそ地平線を超えるだろう。無と存在の調和を未来に託して」

「っ、あ、あぁ……っ!」

 嗚咽が零れる。
 灯架にとって総士は世界も同然だ。生きる意味だ。ではそれが無くなってしまえば? 生きる意味を失った生命に、果たして存在意義があると言えるだろうか?
 ならば、ここで終わりたい。総士と一緒に。そう願っても駄目だと笑う彼は、なんて残酷なんだろうか。

「未来を導いてくれ、灯架。そして、互いの祝福の彼方で会おう。――何度でも」

「総士!!」

 手を伸ばす。しかし総士の姿はどんどんと遠く離れていって。彼の向かう方が、彼の言う存在と無の地平線なのだろう。

「――愛している、お前を。永遠に」

「っ……私も!」

 遠くなり行く総士に聞こえるよう声を張り上げ、涙を拭って精一杯笑う。せめて、さよならの時は。

「私も……ずっと総士を愛してる!」

 声と笑顔は、彼に届いていただろうか。




 次に灯架の意識が覚醒した時、真っ先に知覚した感覚は『首から上が無い』というものだった。
 咄嗟にニーベルング・リングから指を引き抜き、首を押さえる。当然そんなことはなく、きちんと首は繋がっており、温かい皮膚の下でドクドクと血が脈打っていた。不格好に吸ってしまった息に噎せる。
 数度深呼吸して状況を整理する。
 ミツヒロが操るマークレゾンに喰らいついて攻撃を仕掛けたところまでは覚えている。しかしそこで十四番機の首が捩じ切られて――
 首を擦る。つくづくフィードバックが恐ろしいと感じてしまう。生きながらに首を捩じ切られる感覚を覚えるなんて。

「……そうだ、総士……!」

 ザインとニヒト、二機がかりでレゾンに対抗していたところまでは覚えている。空へ空へと昇っていくスタイラーの軌跡と、飛べずにぐんぐんと落ちていく視界。総士は、総士はどうなったのか。
 落下したダメージで軋む身体に歯を食いしばって力を込め、コクピットの扉を押し開ける。ガコン、と重たい音を立てて扉が開き、縁に手を掛けて機体の上に上がった。
 薄暗いところから急に出た為か目が眩む。慣れてきた頃合いに機体から降りようとして――思いっきりバランスを崩した灯架は大きな音を立てて機体の上に転がってしまう。
 立ち上がろうとする。上手く立てない。手足に力が入らないとかではない――平衡感覚が掴めないのだ。
 恐る恐る目の淵に触れる――見えない。世界の全ての色彩が奪われ、目の前にある自身の手すらも輪郭が掴めない。同化現象が進行した証だ。
 いつだってそうだ。灯架の身に降りかかる同化現象は体の麻痺でも、頭痛や頭髪が抜け落ちることではない。蒼穹と海と、総士を見つめるための目を奪われることだった。
 視力以外の感覚を使って立ち上がり機体から降りると、柔らかい砂の感触が足裏に跳ね返ってくる。どうやら砂浜近くに墜ちたらしい。
 覚束ない足取りで歩く。歩行能力に問題はない。ただ……ただ活力が湧き上がらないだけだ。生きる意味と意義を失ってしまったであろう今、正しく灯架は生ける屍だっただろう。
 宛もなく彷徨った末、灯架が辿り着いたのは世界樹アショーカが根付いた場所だった。まるで宝石の山のように周囲一体が同化結晶で覆われている様子は壮観で一つの芸術のようだが、今の灯架の目には白黒の世界の一オブジェクトでしかない。
 誰かが名前を呼んだ、ような気がする。でもそれは総士の声じゃない。
 声のした方を頼りに進んでいけば、誰かが立っている気配がした。それも複数人だ。

「誰……?」

「俺たちだ、灯架

「一騎……じゃあ側に居るのは甲洋と操?」

 聞き馴染みのある声と気配に少し安堵する。三人の元へと向かえば自ずと灯架の異変に気付いてしまうだろう。操が息を飲んだ気配がする。

灯架……目が……」

 操の目には、きっと光を失って濁る赤い瞳が映っているのだろう。申し訳ない事をしたと思う。操のお陰で一度は視力を取り戻せたと言うのに。
 三人の側まで行くと聞き慣れない音がして、灯架は音の発生源を探す。その微かな音は一騎の方からして。
 そろりと近寄る。度々発せられる意味のない音の羅列は、赤子の声だった。

「ニヒトのコクピットに居たんだ。シナジェッティック・スーツに包まれて」

 普通、同化現象で砕け散れば身に纏っていた服すらも同化してしまう。つまり新しいシナジェッティック・スーツに包まれていたという訳で。

「……あ、ああ」

 再び涙が込み上げてくる。それを拭おうともせず灯架が両手を差し出すと、一騎はそっとその赤子を灯架に抱かせた。
 感じる。新たないのちの温かさを。総士の繋げた未来の重さを。きっとこの事が、総士の言っていた『未来』なのだろう。
 ポロポロと零れる涙が赤子の頬に落ち、不思議そうな声が聞こえる。その様子を感じ取り、灯架は涙ながらに笑顔を浮かべてみせた。ボロボロだけど、精一杯の笑顔を。
 ――生きよう。この子の為にも。総士の言う通り、未来を導くためにも。


◆◆◆

 ザザ、と波が押し寄せては引いていく音がする。穏やかな初夏の海風も心地よく、スケッチブックに鉛筆を走らせていた灯架は暫し手を止めて瞑目し、肌でそれらを感じる。

「ねえ、今日は何を描いてるの?」

 並んで防波堤に座っている少年が灯架の手元を覗き込んでくる。灯架に倣って自分もとスケッチブックとクレヨンを持ってきていそいそと描いていたが、そろそろ飽きてきたのだろう。子供らしい様子に微笑みながら灯架は鞄から水筒とお菓子を取り出す。水筒の中身は麦茶だ。
 付属のコップに注いで手渡せば、少年はコクコクと飲んで喉を潤した後にお菓子へ手を伸ばす。描き上げるのにはもう少し時間が要るから、少しは気晴らしになってくれるだろう。

「私と、総士の故郷だよ」

「こきょう?」

 こてりと首を傾げる。総士が理解するには少しだけ早い概念だったのかも知れない。
 再び鉛筆を走らせる。描くのは海に浮かぶ竜宮島。しかしそれは海上や別の島から見た風景ではない。旅客機やリンドブルムを背負った十四番機に乗っている時に見た上空からの視点だ。
 着色は帰ってからにしようと考えつつ、スケッチブックの次のページを開く。そこには描きかけの人物画があって。
 お菓子を咀嚼しながら総士が再び覗き込む。

「これ、だぁれ?」

「私の一番大事な人」

 その言葉に総士が丸い頬を更にぷくっと丸くさせる。

「ぼくじゃないの?」

「うーん……総士も一番大事で好きだけど、ちょっと種類が違うかな」

「……わかんない」

 俯いて唇を尖らせる。
 誰だって好きな人の『一番』で居たいのに。灯架は違ったのか。不貞腐れているとポン、と優しく頭を撫でられる。

「どっちも一番大事で、一番大好きだよ」

「ほんと!?」

 パッと表情を明るくさせて灯架の腕に抱きつく。愛しげに目を細めて総士の頭を撫で、満足した総士が離れると再び鉛筆を走らせ始めた。

「……これ終わったら夕飯の買い物して帰ろっか」

「ぼく、ハンバーグがいい」

「一昨日もハンバーグじゃなかった?」

 クスクスと笑えば総士も面白そうに笑う。総士が望むなら何だって作ってあげたいが、栄養バランスを考えないと一騎に怒られてしまう。
 ミートボールじゃ駄目かな、なんて考えながら鉛筆を走らせる。遠くを見つめる鋭い眼差しに、左目に走る傷跡。記憶を頼りになってしまうが、何時だって迷いなく、そして正しく描ける自信がある。

 ――そう。私が居なくなる、その日まで。

 絵の表面を軽くなぞる。

 ――私は此処にいる。

 彼の言う、導いた未来の先に何が待ち受けているのか、それはまだ分からないが。
 それでも、進もう。選び取ろう。この身が尽きるその日まで。

 海風が強く吹いてくる。暴れる髪を耳に掛けて、灯架は遠くの水平線に目をやった。
 まだ見えぬ故郷に思いを馳せるように、降り注ぐ太陽の光の眩しさに耐えかねるように目を眇める。

 ――約束、ちゃんと守るから。

 押し寄せては引いていく波音のように、何度も心の中で囁いた。




 二十一歳、夏――一つの戦いのおわり。
 私たちはきっと、そこにいた。