夏の残照

 ジワジワ、シャワシャワ。
 蝉たちが一斉に己の存在を示すように鳴く。茹だるような暑さも相まって余計に暑苦しさを感じる。総士は母親に持たされたハンドタオルで額を伝う汗を拭った。
 せっかく明日が祭りの日で、準備があるからと授業が午前中だけだったのに、よりにもよって宿題を持ち帰り忘れた。たったそれだけの理由でこの暑さの中学校と家とを往復する羽目になってしまい、総士は昨日の自分を恨む。どうして忘れたんだ、この馬鹿。
 別に休み明けに持ち帰って遅れて提出したって自分は問題無いのだ。だけど乙姫にバレてカンカンに怒られてしまったし、マリスに知られたら絶対からかってくる。仕方ないので取りに行き、休みの間に終わらせてしまおうと、本当に仕方なく歩いている。
 蝉たちの鳴き声が自分を小馬鹿にしているように聞こえてくる。この真夏日にわざわざ出歩く馬鹿者めと。そんな筈がないのに。
 ああ、イライラしてきた。早く宿題を取って帰って、アイスでも食べよう。そう思いながら歩を進めていると、前方の大きな木の陰に人の姿を見つけた。ただの通りすがりだろう、とすぐに視線から外そうとしたが、考えに反して総士の足は立ち止まり、食い入るようにじっとその姿を捉えていた。
 見慣れない、若い女性だった。この狭く小さい竜宮島なんて全員が顔見知りだと言っても過言ではないのに。縦のストライプが入った灰色のシャツに、白いパンツ。肩ほどの黒髪と静かに佇んでいる様子も相まって、そこだけ色彩と時間を切り取ったかのような感覚を覚える。彼女が青い日傘を差していなければ時間がそこだけ止まったと思っていただろう。
 視線を感じたのか、誰かやって来たことに気付いたのか。彼女は総士に視線を向けると柔和に微笑んだ。
 何故だろうか、どくん、と心臓が跳ねる。

「……こんにちは。そこに立ってると、暑くて熱中症になっちゃうよ?」

「えっ、あっ……」

 喉がカラカラになる。舌がもつれる。
 総士が次の言葉を選ぶのに手間取っている中、彼女は穏やかに笑って総士の言葉を待っていて。

「島の人、じゃ、ないです……よね」

「うん……そうなるね」

「ベノンの人? それともエスペラント?」

「どっちでもない。……ほら、木陰においで」

 手招かれる。少し気恥ずかしいが、大人しく従った総士は彼女の隣まで向かう。恥ずかしいので一歩分ほど距離を開けて。
 大ぶりな枝から伸びる木の葉が、照りつける日光を防いでくれて些か涼しい。小さく息を吐いて、チラリと隣の女性を盗み見る。
 ベノンでもエスペラントでもないとはどういうことだろう。その他の用事で島に立ち寄る人間を、総士は見たことがない。そういえば午前中、この炎天下に黒いコートを着た男が学校の門まで来ていたが、彼女も関係があるのだろうか――

「……貴方は、この島が好き?」

「えっ?」

 思考に没頭していた意識が戻る。ハッとして顔を上げれば、彼女の黒い瞳がじっとこちらに向けられていた。
 唐突に投げかけられた問いに驚くが、総士はすぐに自慢げな表情を浮かべる。

「勿論! 平和で良いでしょ、この島!」

「……そうだね。ここは、楽園みたい」

 そう口にして彼女は笑みを浮かべ、総士から視線を外して竜宮島の風景に向けられる。
 だけど、どうしてだろうか――彼女の浮かべた笑みが、どこか淋しげだと思ってしまったのは。
 彼女に倣って静かに風景を眺める。総士にとってはいつもの代わり映えしない景色だが、島の外からやって来た彼女にとっては目新しい景色なのかもしれない。
 暫くはそうしただろうか。不意に彼女が「あ、」と呟いて総士を見やる。

「どこか行く様子だったけど……引き止めて大丈夫だった?」

「あっ……!」

 そうだ、宿題。
 総士の慌てる様子が面白かったのだろう。手を口元に添えてクスクスと笑う。

「僕、学校に行かないと!」

「そっか。いってらっしゃい」

 ひらりと手を振る彼女に見送られ、総士は駆け出す。
 学校はもう目と鼻の先だった。


◆◆◆

 その晩。人気の失せた小道の階段に、二つの人影があった。共に見た目は若く、男は階段に腰掛け、女も側の地面に膝を抱えて座っている。黒い髪に黒い冬用コートという出で立ちの二人は、この闇夜において空気と共に溶けて消えてしまいそうな雰囲気を持っていた。
 近くの民家に置かれた無線機が、ジリジリと音を立てる。――人の住んでないその民家に、もしも誰かが住んでいたのなら。それは不器用な陶芸家と、同じく不器用なその息子だっただろう。
 無線機の周波数が、合う。

『僕は竜宮島の皆城総士。聞こえますか』

 聞こえてきたのは、記憶の中よりも大人びた少年の声だった。二人が黙していると聞こえていないと思ったのか、少年は続けて言葉を飛ばしてくる。

『僕は平和な島にいます。争いもなく、みんなが幸せに暮らしています。けれど誰も、外の世界を知りません。ベノンのこともエスペラントのことも、放送で聞くだけです』

 ――平和な島。ここにいれば争いも痛みも、悲しみも味わうこともなく暮らせるだろう。きっとそれは楽園だ。
 だけど二人は知っている。この島が仮初の平和で出来ていると。大勢の者に痛みと苦しみを強いた上で出来ている、偽りの楽園だと。

『僕は知りたい。海の向こうには何があるのか。世界が本当はどうなっているのか。誰か教えて下さい』

「――真実を、知りたいか」

 黒衣の男――真壁一騎が口を開く。傍らの女――皆城灯架もゆるりと顔を上げ、一騎を見やった。

『こちら皆城総士。聞こえますか』

「聞こえてるよ、総士」

『僕以外、誰も聞いていません。昨日の話の続きを。……あ。その前に今日、学校に来ましたか?』

「……ああ。お前がどんな風に暮らしてるか、見たかった」

『やっぱり! 平和でしょ、この島!』

 その問いに一騎は答えず、静かに瞑目する。

『貴方はベノンの人間? それともエスペラント?』

「どちらでもない。世界には、それ以外の大勢人間がいる」

『そうだよ……人が二種類しかないなんておかしい。大体、ベノンもエスペラントもどう違うか、僕には分からない』

 独り言のように総士は呟く。閉ざされて限られた情報しかない環境下でもそのことに気付くとは、やはり地頭が良いのだろう。

「知れば、平和を失うかもしれない」

『何もしなければ平和だなんて、本当は平和じゃないってことでしょ。貴方も教えてくれないなら、他の手段を探すだけだ。船の操縦を覚えて、一人で外に出ればいい』

 灯架の脳裏に、遠い日の記憶が浮かび上がる。
 自分たちが平和だと思っていた小さな世界は、誰かを犠牲にして譲ってもらっていた平和で。真実を知りたいと願って船旅を選んだのは、傍らに居る彼で。
 あの時とは何もかもが真逆だな、と灯架は小さく笑う。

「……分かった。お前に、真実を見せよう」

 明日のこの時間、常夜灯の前で。そう約束し、無線機は切られる。シンと静まりかえった場に、灯架が小さく息を吐いた気配だけがした。
 明日、全てが動き始める。


 翌日の同時間。約束の常夜灯前へ一騎と共にやって来た灯架は、遠くで聞こえる祭りの喧騒に耳を澄ませる。太鼓の音に、祭囃子。子供の楽しげな笑い声に、大人の呼び込む声。まさにいつの日にか見た竜宮島のお祭りが行われているが、唯一違う箇所がある。

「灯籠が……空へ飛んでく……」

 死者の魂を弔うために流される灯籠が、ゆっくりと空へ飛んでいく。島の位置を気取らせないためなのか、人間の文化を不完全に模倣したが故の方法なのか、宇宙からやって来たフェストゥムだからこそ空へと放つのか、それはただの人間の灯架には分からないが。

「綺麗。こんな状況じゃなかったら、絵に描いて収めたいくらい」

「お前の目には、まだそう映るのか」

「……うん」

 傍らの一騎の視線が、ゆっくりと空へ向かう。その横顔を見ながら、灯架は寂しそうに笑った。
 生の循環を超えた一騎を待っていたもの。それは生存限界を超えて尚ファフナーに搭乗出来る力とフェストゥム由来の強大な力だったが、力というものは常に代償が付き纏う。

 一騎が支払う代償は、人間性だった。

 力を使えば使うほど、一騎の人間性はすり減っていく。第五次蒼穹作戦を経て総士を捜索したこの三年で、一騎は随分と人間から離れてしまったように思える。
 感情が希薄になった。食べ物の味が分からなくなった。このまま乗り続けていれば空を綺麗だと思う心すら失ってしまう、と甲洋は言っていたか。
 その限界すら超えてしまったら、一騎はどうなるのだろう。総士のように存在と無の地平線を超えてしまうのか、あるいはそれ以外か。
 そんなことを考えていれば遠くから走ってくる足音が聞こえ、灯架と一騎は空に浮かぶ灯籠から視線を外した。
 法被を脱ぎながら少年――皆城総士は駆ける足を緩め、おずおずと一騎たちに近づいていく。

「真壁……一騎さん、ですか? そっちの人は……昨日、昼間に会った……!」

 コートの口元部分を下げて顔を出し、一騎は笑ってみせる。

「大きくなったな、総士。ずっとお前を探していた」

「そうだ……! 僕は貴方を夢で見た!」

 ハッと気付く。
 先日見た夢。総士は何かの結晶で出来た紅い木が、プールのような場所から生えている不思議な場所にいたのだ。名前を呼ばれて振り返った先には乙姫と、乙姫によく似た少年が居て、傍らにこの男が立っていた。夢の中の彼は、なんと言っていただろうか。

「……本当に、大きくなったね。総士」

 感慨深そうに呟き、一歩前に出た灯架は総士へ手を伸ばす。伸ばされた手は優しく彼の頬を包み込んだ。まるで母親に褒められている時のような感覚を覚えるが、気恥ずかしくてくすぐったさもあり。
 灯架が何かを言おうと口を開きかける。しかしそれを妨げるように、少女の悲鳴にも似た声が遮った。

「行ったら駄目ぇーーっ!」

「乙姫……?」

 振り返って元来た道を見れば、いつのまにか乙姫がそこにいて。不安そうな表情で総士を見つめている。
 サイレンが唸る。その音に招かれるように島民たちがぞろぞろと集まりだす。

《侵入者が、発見されました。力を合わせて、捕まえましょう。皆様に、ベノンの祝福が、ありますよう》

 二人を庇うように総士は乙姫の前で両手を広げる。

「待って! この人はエスペラント軍の人じゃないんだ!」

「そう! もっと危険な存在! 三人のエレメントの一人と、貴方に望郷の念をもたらす者!」

「えっ……?」

 乙姫の言っていることが、分からない。真意を図るように総士は振り返って二人を見やる。一騎はじっと乙姫を見つめ、灯架は島民たちから総士を離すように、腕を掴んで自分の側へ引き寄せる。
 乙姫が胸に手を当て、感情を込めて叫ぶ。

「私達、平和に暮らしてるの! 感情を学んだのよ。最初はマレスペロの命令だったけど、今は本当の家族だと思ってるの。貴方なら、分かるでしょう?」

「何言ってるんだ、乙姫……?」

 見た目は確かに自分の妹だ。何年もずっと側に居た、掛け替えのない最愛の妹。しかし今の総士の瞳には、妹の皮を被った別の存在のように映っていて。
 乙姫が何を言っているのか、本当に分からない。感情を学んだとは? マレスペロとは? 命令? なんのことだ。

「お前達は人間じゃない。それを総士に教えなかった。お前は攫われたんだ、総士。そして作り物の島に連れてこられた」

「だから、私たちはずっと探していたの、総士。貴方を取り戻して本当の故郷に帰るために」

「その人たちの言うことを聞かないでぇーーっ!」

 乙姫の叫びと共に、島民たちの姿がどろりと金色に溶けた。見知った顔が、無貌の金色の生命体へと成り果てる。その異常な光景に総士は後ずさりし、それらから守るように灯架は総士を片手で抱き寄せた。素早い動作で懐から拳銃を取り出し、生命体に向けて銃弾を撃ち込む。銃弾を喰らった数体が、苦しそうに身をくねらせる。
 その二人ごと庇うように、一騎は右手を突き出して掲げる。

「お前たちの居るべき無に帰りな!」

 ぐっと手を握り込むと金色の生命体から緑の結晶が生え、それが全身を覆った瞬間、バリンと甲高い音を立てながらその場で砕け散った。残滓のように残った結晶が、キラキラと輝く。
 大きな波音が聞こえ、総士は海へと視線を向ける。
 大きな飛沫を立てながらゆっくりと海中から立ち上がった巨大な人影は、何度も本やテレビで見たもので。

「ファフナー……!」

 夜闇の中でもはっきりと見て取れる、薄灰の機体と群青の機体。憧れの存在がすぐ側にあることに興奮を覚えるも、それを噛み締めている暇もなく総士は一騎に肩を捕まれ、引き寄せられた。何事かと思っていれば足元に鏡面のような水面が出現し、側にいた灯架ごと沈んでいく。

「お兄ちゃん!」

 乙姫が手を伸ばす――が、その手が掴まれることはなく。
 一瞬の暗転。投げ出されるように床に転がった総士が体勢を直していれば上から何かを被され、再び視界が暗くなる。なんとかもがいて視界を確保すれば、どうやら一騎が羽織っていたコートをこちらに脱いで放った様子だった。
 辺りを見回す。ここはファフナーのコクピットだろうか。

「一騎」

 ファフナーが機動したのか、無機質な壁が周囲の景色を映し出す。離れたところに先程の金色が群がっているのが見て分かった。
 間近で見た恐ろしさに身を強張らせていると、幻のように透き通った赤い鏡像が一騎の側に現れた。それは灯架の形を象っていて。

「島が、動き出した」

「ああ。伝わってくる」

「私はこのまま島を出て甲洋たちと合流する。一騎は予定通りボレアリオスに」

「分かった」

 赤い鏡像が消える。そして間を開けずに、傍らの群青のファフナーが海面を滑るようにして走り出して行った。

 背面スラスターを吹かせて海面を滑りながら、灯架は通信を開く。

「ザラキエルよりシステム。総士を取り戻した。これよりアバドンとクロノスに合流する」

『システムよりザラキエル。了解した。……良かったですね、灯架さん』

「……ありがと、彗。でも、ここからだよ」

 微かに笑い、通信が切られる。表情を引き締めた灯架は指定された合流ポイントへと機体を走らせた。
 ――ここからが、始まりだ。