遂にこの日が来てしまった。物憂つげにため息を吐き、エレオノールは街へと向かう。
今日は婚約相手がガルグ=マクくんだりまで足を運び、エレオノールとお茶会をする日だった。足に鉛を括り付けたかと思うほど一歩一歩が重たい。はあ、とエレオノールはまたため息をつく。今日だけで既に二桁は吐いているかも知れない。
此処で「嫌だ」と告げられたらどんなに良いだろうか。しかし今回の縁談は相手にとっては紋章持ちの血を引き入れる利益があるし、バスカヴィル家にも多額の持参金や、恒久的な物資の援助などの利益もある。向こうは領地運営に精を出すとも言ってくれているし、バスカヴィル家としては申し分ない婚姻なのだ。エレオノールが我慢さえすれば、当分の間領地の平和が約束される。そう、自分が我慢すれば。
そうこうしている内に約束の店にやってきてしまい、店員に名前を名乗ったエレオノールは店の庭へと案内される。丁寧に手入れされた草花と、立派なお茶会のセットがエレオノールを出迎える。
「ああ、お待ちしていました、エレオノール様。僕がお話にあったオベール男爵家の者です」
「お初にお目にかかります。エレオノール=レライア=バスカヴィルと申します。今日はこのようなお茶会にお招き頂き、誠にありがとうございます」
制服のスカートの裾を軽く持ち上げて一礼。オベール男爵家の次男と名乗った青年はにこりと人の良さそうな笑みを浮かべ、席へどうぞと手で示してくる。年もそう離れてそうに見えず、好青年といった印象だった。
ちゃんと笑えているだろうか、無礼な態度をしていないかと気にしながら席に座る。事前に誰かに聞いていたのだろうか、ティーカップに注がれた紅茶はエレオノールが気に入っている銘柄の香りがした。
「ガルグ=マク大修道院、懐かしいなあ。僕も青獅子の学級の生徒だったんですよ」
「そうなんですか?」
当たり障りない会話をしていく。自分の居た時はこんな学級だった。エレオノールの学級はどんな感じか。先生はどういった人か。得意科目、苦手科目の話。課題で取り組んだ馬に蹴られそうになった話。好きな献立の話。紅茶を飲みつつ相槌を打ち、自分から話を振る。最初こそ乗り気ではなく内心退屈していたが、次第にエレオノールから笑みが零れるようになってきて。
悪い人ではなさそうだった。話していると楽しいし、こちらを大切にしたいという気持ちも伝わってくる。きっと、この人と一緒になるのは悪くないかも知れない。そう考えつつもマフィンに手を伸ばして齧ろうとした時、店の方から男の大きな声がした。静かな場にそぐわない険のある声に、エレオノールも男性もそちらへ顔を向ける。
「──エレオノール!」
「は、えっ、シルヴァン!?」
らしくもなく息を荒らげ、髪をボサボサにしてまでなだれ込んで来たのはシルヴァンだった。膝に手をついて息を整えているシルヴァンへ、エレオノールは駆け寄っていく。
「ちょっと、何してる──わわっ」
いくらシルヴァンといえど、此処がどういう場なのか分かっている筈だ。一言文句を言って追い返そうと口を開きかけたが、唐突にぐいと腕を引かれ、エレオノールはたたらを踏む。しかし転ぶことはなく、しっかりとシルヴァンに抱きとめられていて。
なんなんだ、一体。見上げればシルヴァンは真剣な表情で男性を見つめている。
「突然の非礼をお許しください、オベール殿。実は先日、エレオノール嬢はゴーティエ家に嫁ぐことが決まりまして。急なお話だったのでどうやら貴方に連絡が行っていなかったらしく、俺がこうしてお伝えに伺いました」
「は……!?」
「ちょっと、シルヴァン!? 何言ってるの!?」
エレオノールを抱きとめながら、反対の手でシルヴァンは一枚の書簡を器用に取り出して掲げてみせる。
「こちらがその書簡です。エレオノール嬢が俺と婚約する旨が書かれていますんで、じっくり見てください。あ、勿論偽物じゃないですよ?」
男性がシルヴァンの手から書簡を受け取り、目を通す。何度か視線が左右を行き来した頃、男性は重くため息を吐いて書簡を懐にしまう。
「……確かに、書かれていた署名はゴーティエ辺境伯とバスカヴィル伯のものでした。正式な書簡と言えましょう。ですが、僕と彼女の婚約もまた正式な申し出。それを反故にしてまで押し通すというのは、些か無礼ではないでしょうか?」
「確かに、その点については非礼をお詫びしましょう。しかし──」
ぐ、とエレオノールの体を強く抱く。
「それを承知の上で、俺がエレオノールと添い遂げたいと思ったということはご理解頂きたい。俺は、エレオノールを他の誰にも渡したくない」
視線が交差する。
ややあって先に視線を逸したのはオベール男爵の方だった。諦めたような笑みを浮かべ、やれやれと肩を竦める。
「……そこまで言われては身を引かざるを得ないでしょう。どうぞ、彼女と共にお引取りを」
「お、オベール男爵……」
「実に勿体ない方を手放してしまったと思います。エレオノール様、どうぞ末永くお幸せに」
「え、えっ」
「では、俺たちはこれで失礼します」
男性に見送られ、エレオノールはシルヴァンに手を引かれながら店の庭園を後にする。そのままズンズンと連れて行かれ、大修道院が見えてきたところでエレオノールがバシンと強く振り払った。驚いて立ち止まったシルヴァンをキッと睨めつける。
「ちょっと、どういうつもり!? 私の婚姻を邪魔して、それにゴーティエ家に嫁ぐって!?」
「いや、悪かった! それは確かに悪かった! お前に確認取らなかったのとか、一方的に全部決めたのとか!」
今にも胸ぐらを掴みあげそうな勢いのエレオノールを宥めすかす。何度が深呼吸をして息を整え、腰に手を当てながらエレオノールはシルヴァンへ軽蔑した視線を投げる。
「……私に同情した? 文句も言えず流されるがままの私が可哀想って? そういうのだったら本当に私、あんたを軽蔑するからね」
「違う、俺は本気だ。……笑ってくれて良いんだぜ。お前が俺の側から居なくなるって思って、初めて気づいたんだ。お前が居なくなることへの恐怖と……側でずっと笑っていてほしいと、愛しいって気持ちを」
自嘲気味に笑う。
当たり前に続くと思っていた。エレオノールが側に居ることも、緩やかな午後の日差しのようなこの関係性も。しかし何事にも終わりはあるのだ。えにしが途絶える日がたまたま今日であったというだけで。
エレオノールが自分の側から居なくなると改めて認識して、漸く気付いたのだ。ああ、自分は彼女が好きなのだと。ゴーティエの紋章を持つ者、血を引く貴族としてではなく、『ただのシルヴァン』として接してくれるエレオノールが。
その笑顔が自分以外の誰かに向けられると思ったら、その誰かを憎らしく思った。自分の傍らが空虚になると気付いて寂しさを覚えた。元よりエレオノールに触れることに嫌悪感は抱いてなかったが、女性を嫌悪するシルヴァンが自ら手を伸ばして留めたくなるほど、愛おしいと思えた。
渡したくない。誰にだって。
「……貴族としての責務と、紋章から逃れたいって思ってるお前を、結局ゴーティエ家に縛り付けることになっちまうのは悪いと思ってる。けど、約束する」
エレオノールの片手を、両の手で取る。
「俺は必ず、紋章や英雄の遺産を必要としない時代を作る。そして、それを成すときにお前が側に居てほしい」
「シル、ヴァン」
シルヴァンの顔を見上げる。こんな真剣な表情も声音も、エレオノールがシルヴァンと出会ってから一度もなかった。
「俺と、婚約してくれないか?」
一度手を離したシルヴァンが懐を探り、小さな箱を取り出して開ける。中に収められていたシンプルな銀の輪の意味は、言われなくても分かった。
わずかにエレオノールが俯く。
「……私、貴族が大っ嫌い。紋章だって、この体に流れる血だって疎ましい。こんなもののせいで、私の人生は何から何まで決められちゃうんだから」
でも、と区切り、エレオノールが顔を上げる。その表情は悲しそうでも苦しそうでもない。花がほころぶような笑顔で。
「シルヴァンとなら、一緒になっても嫌じゃない。そう思えるんだ」
「エレオノール……ッ!!」
「わわっ!」
シルヴァンに強く抱きしめられて困惑するも、エレオノールはシルヴァンの背に手を回す。ぽんぽんと彼の背を軽く叩いていたが、あっと声を上げると一度シルヴァンから体を離す。
「あのね、シルヴァン。いっこだけお願いがあるん、だけど……」
「ん? なんだ?」
言い出しづらそうに、少し照れたようにエレオノールは視線を彷徨わせ、意を決して切り出した。
「婚約するから……あんまり、他の女の子を口説かないでほしいなー……って」
「ははっ、そんなことか。勿論だって。お前が側に居てくれるんなら一生部屋から出なくったって良いし、なんだったら口説きに行かないように首輪繋いでも良いんだぜ?」
「しないしない!!!! そこまでしない!!!!」