ふああ、と欠伸を零し、目を擦りながらリンハルトはザクザクと中庭の草を踏んでいく。目指す先は最近見つけた、穴場の昼寝場所だった。
薔薇が咲き誇る中庭の……の隅。お茶会用の机や椅子が置かれた場所ではない、知る人ぞ知るその場所。そこそこ立派な木の下がリンハルトとっておきの場所だ。
まず、こんな隅まで来るような物好きは少ない。だから自ずと此処はリンハルト専用の場所になるし、生け垣が丁度良く中庭からの視線を遮ってくれるから昼寝をしていても気付かれにくい。大ぶりな枝葉の隙間から溢れる日差しも丁度良く、昼寝をするにも読書をするにしても最高の場所なのだった。
片手には紋章学にまつわる分厚い本。まだ途中までしか読めていないから、今日はキリの良いところまでは読み進めたい。可能ならば……邪魔が入らないのなら最後まで。
心なしか軽い足取りで青々とした草を踏んでいく。そうして目的の木の姿を目視し始めた頃。
「……ん?」
その木陰に人の姿を認め、リンハルトは怪訝そうな顔をした。
此処はとっておきの秘密の場所の筈だ。それを自分以外の誰かが知っているだなんて。
またエーデルガルトが探しに来たのだろうか? それともカスパル? だったらやだなあなんて思いながらよくよく注視して、気付く。此処から見える鮮やかな赤い髪は、エーデルガルトでもカスパルでもない。何なら『黒鷲の学級』の生徒でもなかった。
エレオノール。『青獅子の学級』の生徒。積極的に関わったことはないが、それでも座学や実習で一緒になったことは何度かある。その中で抱いたリンハルトの中の印象は「可もなく不可もない子」だった。
特筆する特徴があるわけでもなく、露骨に何かが苦手というわけでもなさそう。社交性に難がありそうな風もなく、寧ろ取っつきやすそうだなと感じた。まあ詰まるところ、寝てるリンハルトを無闇に叩き起こしたりはしない、無害な人物だというのは推測出来て。
頁に指を通し、分厚い本に目を落としている。時たま風にそよぐ髪が邪魔して鬱陶しいのか、読みやすいように髪を耳に掛けている。なかなか絵になるなあとぼんやり思っていれば、視線を感じたのだろう。ふとエレオノールが顔を上げ、周囲を見回した後にリンハルトを視界に収めた。
「……ん? リンハルト?」
「あー……君も此処で本を読んでたの?」
「うん。此処、涼しいし人気も無いから穴場なんだよね」
リンハルトは僅かに落胆する。とっておきの秘密の場所は、自分専用の楽園ではなかったみたいだ。
彼女はきっと読書の邪魔をしてこないと思うが、二人で並んで仲良しこよしで本を読むような間柄でもない。仕方ない、今日は別のところに行こうか……と思っていると声が掛かる。
「そっちも本読みに来たんでしょ? 邪魔しないから、此処で読めば?」
逡巡する。このまま此処に留まるか、別の場所を探して歩き回るか。
答えは即決だった。歩き回る時間も惜しいし、黒鷲の生徒に捕まりでもしたらそれこそ時間の浪費だ。
「……じゃあ、失礼して」
よいしょ、と傍らに腰掛け、幹に背を預ける。そよそよと吹いてくる風は心地良く、時折耳に届く頁を捲る音も悪くはない。エレオノールは言葉通りリンハルトに話しかけてくる様子はなく、これなら心ゆくまで読書に勤しめるだろう。
リンハルトも本を開き、目的の頁を開いては目を通し始める。内容は英雄の遺産に触れるものだった。
曰く、英雄の遺産は現存している数よりも本当は多かったと。なるほどな、と思いながらリンハルトは読み進めていく。確かにどんな偉大な武器だって存在している限り摩耗していく。数多にある英雄の遺産も、時の濁流に飲まれてすり減り、あるいは墓を暴かれ簒奪され、あるいは失われていったのだろう。
記述に目を通しながら、その武器はどんなものだったのだろうと想像する。何の紋章に対応していたのだろう、どういう風に扱ったのだろうと考える。そうして紋章学に思いを馳せている時こそ、リンハルトの最も好きな瞬間だった。
頁を捲り、一つの章が終わる。そこで一瞬集中力の途切れたリンハルトはちらりとエレオノールの方を盗み見てみた。傍らに数冊置かれている、重厚そうな本。その題名たちはどれも分野が異なっていて、リンハルトは不思議そうに題名を読み上げる。
「基礎軍事論、近代農耕、歴史……何これ、分野がバラバラすぎじゃない?」
「あー……帝王学ってやつだよ。領地運営に必要な本を借りてきて読んでるの。やっぱ学院の授業だけじゃ足らないしね」
読みながらエレオノールは答える。そこで目的の項目は読み終えたのだろう。本の山に手を伸ばし、今度は近代農耕についての本を取って開く。
黙々と読み進めていく様子は「本が好きだから読む」という雰囲気でもない。エレオノールが口にした通り必要だから読む、必須の項目だけ選び取って読む、という感じだ。
本を読むのを一旦中断し、リンハルトは膝を抱えると組んだ腕に頭を乗せ、エレオノールの方を見やる。
「何をそんなに頑張る必要があるの?」
「私が頑張らなきゃ領民が飢え死にしちゃうから」
いつかは父親から爵位を継ぎ、新たなバスカヴィル伯となって民を纏め、導く立場にならなくてはならない。そのためにも詰め込められる知識は詰め込んでおいた方が良いのだ。
兵士を動かす軍事学。ファーガスの気候に合う農法や農耕器具の選別。上に立つ者としての礼節や知識。今から学んだって時間は足らないくらいだ。
そんな言葉にリンハルトは「ふぅん」と気の抜けた相槌を打つ。
「それってさ、君である必要はある?」
「……それは、」
頁を捲る指がピタリと止まる。そんな考えは思いもしなかったとでもいうように固まってしまったエレオノールを、リンハルトは眠たげな目で見つめる。
リンハルトからしてみれば不思議でしょうがなかった。気の乗らないことを積極的に取り組もうとするなんて。人間には「逃げる」という選択肢を与えられているのだから、時には逃げたって良いはずなのに。爵位を継ぐのが嫌なら、爵位を継ぎたい親しい親類に渡して自分は好きなことをすれば良い。何をそんなに考え込む必要があるのか。
暫し固まっていたエレオノールは、探した言葉が霧に紛れてしまったように一度開けた口を閉じ、キュッと唇を結んでしまう。
と、ガルグ=マクの厳かな鐘がなる。その鐘の音を聞いたエレオノールは「あ」と声を漏らすと本を閉じ、纏めて抱えると立ち上がった。
「じゃあ私、馬の世話当番だから行くね」
「ああ、うん。頑張ってね」
ひらりと手を振り、一人になったリンハルトは体勢を直して読書を再開する。
「…………」
困ったようなエレオノールの横顔が、心のどこかに引っかかったまま。