「あ」
それから数日後。再び例の木の元で本を読むべく向かったリンハルトが目にしたのは、あの日と同じように先んじて読書に耽っているエレオノールの姿だった。何となく気不味さを覚えてリンハルトは頬を掻く。
先日のことだ。幾らなんでも少し家の事情に深く踏み込みすぎてしまったかなと、後々自省したのだ。自分だって家のあれこれを他人に突っ込まれたら良い気はしない。だから彼女もきっと気を悪くしただろう。
謝りたいと思う気持ちはある。しかしあの日に別れてから今に至るまで、授業で顔を合わせることが無かったために何と言い出したらいいか分からなくて。
そんなことを思いながらぼうっと突っ立っていれば、またしても人の気配に気付いたのだろう。本から顔を上げたエレオノールがリンハルトを見、あれっという顔をする。
「リンハルトじゃん。また此処に本読みに来たの? お揃いだね」
まるで気にしてないとでも言うような口ぶりにリンハルトは毒気を抜かれてしまう。
まあ、此処まで来て踵を返すというのも不自然だろう。それじゃあ……とリンハルトは先日と同じようにエレオノールの傍らに座り、幹に背を預ける。
本を開くその前に、体を捻ったリンハルトはエレオノールに向き直るとポツリと呟く。
「ごめんね、この間は部外者が色々口出しちゃって。いい気分しなかっただろうに」
「ああ、まあ別に……。あんたの言ってることは別に的外れってワケでもないし、怒ってもないしね」
ぺらりと頁を捲りながら、淡々とした声音でエレオノールは返す。本当に気に留めてすらいない様子だ。
文字を追う視線が止まり、中空を彷徨う。思案している素振りのエレオノールは暫し逡巡した後、再び文字を目で追いながら小さく呟いた。
「私さ……嫡子じゃないの」
ぺらり。頁を捲る乾いた音だけがする。
「正妻……私からみたら義母か。その人との間に長らく子供が産まれなくてね。お手つきしたんだよ、当時父上に仕えてたメイドの母さんにね。
まあ向こうもちょっとした火遊びくらいの感覚だったんでしょ。でも身籠っちゃったし、その頃には紋章持ちの兄上だって産まれてたから慌てて母さんを追い出して、領内の小さな村に追いやって……。で、私がまだちっちゃい頃かなあ。私もバスカヴィルの紋章持ってるってことが発覚したみたいで、母さんと引き離されて引き取られたの。兄上は《ダスカーの悲劇》で亡くなるし……だから当主の座が私に回ってきた」
不思議な気分だった。こんな話、シルヴァンやイングリットたち幼馴染にだって話していないのに、今年知り合ったばかりのリンハルトにすらすらと話してしまうなんて。
言ってしまえば家の汚点。機密事項。それなのに話してしまったのは彼ならば無闇に口外しないだろうという気持ちと、のんびりした雰囲気による話しやすさを感じたからだろうか。
「だから……本来私の役目でもないってこと。本来なら私は……此処にすら立ってない筈だから」
もし紋章を持ちながらも父親に気付かれずにいたら? そんな空想は幾度となくしてきた。
空想の中のエレオノールはただの村娘で、平民らしい清貧な暮らしを送りながらも、大好きな母と共にひっそりと暮らしているのだ。
読み書きは必要最低限しか出来ないかも知れない。教養だって今の自分ほど得ていないかも知れない。だけど何にも縛られない『ただのエレオノール』は、きっと今よりも自由なのだろう。貴族という立場は、次期当主という肩書きはそれだけ重い足枷となっている。
だけど、引き取られたから此処に居る。ディミトリたちという自慢の幼馴染に会えたし、こうしてリンハルトと話せている。悪いことばかりではないのだ。
ふぅん、と空気の抜けるような返事をしたリンハルトはやっと本を開く。
そうして事もなげに言ってのけるのだ。
「じゃあさ、いつでも逃げれるってことじゃないか」
「え?」
まるで頭を横からガツンと殴られたかのような衝撃を受ける。それだけリンハルトの放った言葉は衝撃的であったし、エレオノールの中にはその選択肢は存在しなかった。
だってそれは、全ての領民を見捨てるということだ。足枷を外して自由を得る代わりに、全てから目を瞑って自分のことだけを考える、最低な行いだ。
だけどそれをしても良いと、傍らの彼は言うのだ。思わずエレオノールは本から顔を上げてリンハルトを見やる。
リンハルトは眠たげな瞳で文字を追っている。
「親類が居ないわけじゃないだろ? 本当に嫌だったら、投げ出したって良いんじゃない? 僕みたいに」
「ふ、あはは……! リンハルトみたいに、か」
思わず吹き出してしまう。確かにリンハルトは努力とは無縁そうだし、エーデルガルトやカスパルを避けるためにこうした人目に付きにくい場所を選んで読書に耽っていると聞いた。彼でなければ出ない発想と言葉だ。
まあ確かに、親戚縁者が皆無というわけではない。もしエレオノールに何かあったりして当主の座に着けなかった場合は叔父辺りが当主になる筈だ。
「そう。それで遠くにいって好きなことをすれば良い。昼寝したって良いし、研究したって良いし、釣りだって……」
「ふふっ、それってあんたのしたいことじゃん」
「あー、そうだねえ」
羅列された趣味は、どれもリンハルトの好きそうなものだ。くすくすと笑ったエレオノールは本を閉じて傍らに置き、膝を抱えるとリンハルトに笑いかける。
「じゃあ、教えてよ。丁度よく息抜きをする方法」
「まあ、教えるより側で見てた方が伝わるんじゃないかな……」
少し面倒くさそうに受け答えしながらも、満更でもない様子のリンハルト。
最初は彼から何を教わろうか。そのことに思いを馳せれば、不思議と心はふわふわとしてきて。