「はあ~~、疲れた……」
朝焼けの滲む空の下、疲れの混ざった声でエレオノールは大きな独り言を漏らすと体を伸ばした。長時間椅子に齧りついていたからだろう。体を伸ばして関節を回すとポキポキと小気味の良い音がする。
薄く太陽が昇って白み始めた、黎明のガルグ=マクをゆっくりと歩いていく。誰もが寝静まっているこの時間帯は人気が無く閑散としており、清涼な空気も相まって心地が良かった。
帝都でディミトリがエーデルガルトを討ち、フォドラはファーガス神聖王国の名の下に平定された。それでフォドラに安寧が訪れたのかと言われればそうとも言えるし、まだだと答えるのも正しい気がする。
確かにこれ以上大きな戦いは起きないだろう。しかし帝国側だった諸侯が素直に王国に迎合するとは思っていないし、各地では戦争が残した燎火が……盗賊による強奪や荒れた街、傷を負った人々が残っている。それらを諌め、対話して、或いは手を差し伸べて復興させて、それで漸く真の平和が訪れるというのものだ。
そのためにはまず、戦後の処理。父親だけでは処理出来ない事務仕事を幾つか請け負ったエレオノールは、ここ暫くずっと拠点であるガルグ=マクの一室を借りてせっせと羽ペンを動かしていた。
「たまには剣振らないと、体鈍る気がする……」
合間を見て訓練場で剣を振ろうか。フェリクスも公爵として忙しいが、時間が合えば手合わせでもしてくれるかも知れない。ブツブツと呟きながらエレオノールは適当に足を進め、一瞬立ち止まった。きょろきょろと辺りを見回し、上を見て一つ頷く。
──気晴らしの散歩なら、どうせなら上から景色を眺めようかな。
そうと決まれば、とエレオノールは大聖堂の方に足を向け、伽藍としたそこを抜けると一つの塔へと向かっていく。扉を前にして鍵がかかっているかもと危惧したが、それは杞憂に終わったようだった。取手に手を掛ければ扉は簡単に開き、エレオノールは狭い階段を登っていく。
鬱屈とした狭く暗い階段を無心で登っていき、最後の段をブーツの底で叩く。扉を開ければ、そこに待っていたのは新しいフォドラの一日を祝福するかのように太陽を受けて輝く、ガルグ=マクの城下町や山々の風景だった。涼やかな風がエレオノールの髪をかき混ぜていく。
城壁の低いところに腕を乗せ、城下町の風景に目を落とす。少し此処で休んでから、仮眠を取ろう。明日は先生……いやベレス大司教猊下の戴冠式だ。式の最中に寝落ちるなんてことは許されない。
まだまだやることは山積みだ。一体いつになれば休めるのだろうか。
そんなことを考えていれば、誰かが階段を登ってくる音がしてエレオノールは上体を起こし、振り向く。
朝焼けに緑が透ける。
「ああやっぱり、此処にいた」
「リンハルト?」
やってきた人物の姿を目に留めてエレオノールはぱちくりと目を瞬かせる。だって彼は早朝に行動をするというのが一番似つかわしくない人だ。
不思議そうにしていると、リンハルトはエレオノールの隣に並んだ。朝焼けが目に染みるのだろう。ゴシゴシと目を擦っている。
「寝てる時間じゃないの?」
「本当は僕だって寝ていたいよ。けど皆が盗賊討伐だとか会議だとかに出席するとかで、机仕事が回ってくるんだ。お陰でこんな時間まで仕事漬けだよ。ああ……嫌になる」
「あはは、お疲れ様」
心底辟易している様子にリンハルトに、城壁に背中を預けたエレオノールは笑う。
「それにしても、よく私が此処に居るって分かったよね」
「それはまあ、ずっと君の側に居ればある程度は予測出来るよ。この時間に起きてたのは意外だったけど、まあ僕も起きてたし、丁度良いかなって」
「……? 何が?」
そう言えばリンハルトは自分を探しているようだった。次の言葉を待っていればリンハルトは上着をごそごそと探り、しかし途中でその手を止めると「あっ」と呟いてエレオノールの顔を見やる。
「そう言えば、君って戦後はどうするの?」
「へ? あー……」
頬を掻く。まあこのまま順当に行けば当主の仕事を幾つか任され、慣れていけば徐々に増え、いつかバスカヴィル伯となるのだろう。そうして領地を守り、領民を守り、王国をより良くしていくのだ。
──だけど、リンハルトが聞きたいのはそういう近い未来の建設的な話ではないのだろう。付き合いも長くなればある程度分かる。
あの日──五年前、リンハルトと交わした約束を思い出す。戦いが終わったら昼寝の計画を立てようと。それをどうするのかと、リンハルトは問うているのだ。
自らを殺して家のために生きるか、それとも全てを捨てて自由に生きるのか。
それについてはこの五年間、度々思い出しては考えていた。悩む夜もあった。そうして悩んで、悩んで──エレオノールは決めたのだ。
僅かに俯き、息を一つ吐いたエレオノールは顔を上げてリンハルトを見つめる。
「私……当主になろうと思うんだ。でも義務とかじゃなくて、使命感でもなくて……守りたいって気持ちで」
城下町に目を向ける。リンハルトに目に映るエレオノールの横顔はとても穏やかで、朝日を受けて美しさすらあった。
「今日もこうして町の人たちは起きて、仕事をして、明日を迎える。それってさ、当たり前みたいで当たり前じゃないんだなって今回の戦争で身に沁みて分かったの。そんな日常が少しでも続けば良いなって……その手助けをしたいなって思ったんだ」
「ふぅん、なるほどね」
「あはは、凄いどうでも良さそう」
「いや、そんなことはないよ? 君が定住してくれるなら、僕もあちこち旅に出たりする必要もないからね」
良かった良かった、と言いながら再び上着を探り、いよいよ目当ての「それ」を取り出す。
取り出され、差し出されたのは小さな小箱。リンハルトがそれを開ければ中には蒼い宝石が埋め込まれた指輪が鎮座していて。
「え……」
指輪を差し出される意味なんて、知っている。しかしリンハルトの持つ印象と差し出した指輪の意味が噛み合わず、エレオノールはリンハルトと指輪を交互に見やる。
「前にも言っただろ? 君の側は居心地が良いし、君に世話を焼かれるのは嫌いじゃない。……ああいや、この場合は好きって言った方が良いんだろうね」
「リ、リンハルト?」
「君の……エレオノールの側に居たい。それで君が領地運営して平和になったら、一緒に昼寝計画を立てたいんだ。駄目かな?」
左手を取られ、薬指にそっと指輪を通される。その一連の流れをエレオノールは遮らなかった。
嵌められた指輪を見つめ、嬉しそうに顔を綻ばせたエレオノールは大事そうに左手を胸に抱く。
「……全然駄目なんかじゃない。私もリンハルトと一緒に居たい」
「まあ、君の領地運営にとやかく言うつもりはないしね。僕は君の屋敷か城で思う存分紋章の研究を……」
「折角いまあんたが良いこと言ってたのに!!」
エレオノールが吹き出し、クスクスと笑う。その笑顔を見て、リンハルトも目元を緩めるのだった。
──ああ、やっぱり笑ってる方が可愛いな。