そしてひとり深海で瞳を閉じた
「っ……う……」
意識が朦朧とする。頭が上手く回らない。手探りでヒンメルが腕を伸ばすと、固くてひやりとした感触が返ってきて、ああ床に倒れてるのかとぼうっとする頭でようやく理解した。肌に触れている空気は、長い間人肌に触れてないかのような冷ややかさでヒンメルを刺してくる。
何故こんな場所に倒れているのかとヒンメルは直近の記憶を思い出す。確か、天幕でランプを着けて書類仕事をしていた筈だ。
……ああそうだ。段々頭がクリアになっていく。
それで、山のような書類仕事の休憩の時間に珈琲を飲みながら戦術書に目を通していたんだ。そうしたらルフレがやって来て、他愛のない話をした。していたら、ルフレがこちらに手を伸ばしたのだ。ヒンメルの額に触ろうとして、
――それで、そのあとは?
「っ……!」
バッと起き上がり、いつでも腰にある剣を引き抜ける体勢になる。しかしベルトごと外されたのか柄を掴む手は虚空をさ迷っていて。
仕方ない、と手を床につけるとヒンメルは辺りの様子を伺った。松明に火が灯されていない為か非常に薄暗く、遠くまでは見通せない。しかし見覚えのある場だということは理解出来た。此処は以前、一度だけ目にしたファリアにあるギムレーを祀る祭壇場。天幕を張っていた拠点からは随分と離れていたハズだが、どういうわけかヒンメルは此処に寝かされていた。
何故、どうしてと疑問が湧き出る。思考しているとブーツが床を叩く音がしてきて、ヒンメルは警戒をしながらもその人物がやって来るのを待った。
不思議な紋を編み込んだコート。目深に被ったフードからは銀の髪が零れ落ち、まるで女と見間違うほど綺麗な白磁の肌が見える。その男はヒンメルの前まで行くと片膝を付き、ヒンメルに手を差し伸べた。
「大丈夫かい? ヒンメル」
その声はいつも聞いてた、ルフレの優しい声で。
その甘い声につい手を伸ばしてしまう。だが――嫌な予感がして、ヒンメルはルフレの顔を見上げる。
「あんた、ルフレじゃ、」
「…………」
『ルフレ』は何も言わず、ぐいとヒンメルの腕を引っ張ると強く抱き締めた。腕に力が篭っていて痛い。苦悶の表情でなんとかヒンメルはルフレを突き飛ばす。荒くなった息を整え、ヒンメルは正面から『ルフレ』を睥睨した。
「……ルフレに成りすまそうって魂胆? 『邪竜ギムレー』」
突き飛ばした拍子に尻を打ってしまったのだろう。しかしルフレ――いや、彼の体を使っているギムレーは服に埃が付く事も気にせずに立ち上がり、ヒンメルの前に立つ。
「ああ、そうだ。お前を拉致してからクロム達を誘き出し、此処に集まってきた所を全員殺す。お前はその為の餌であり人質だよ」
「人質……」
隠し持っていた短剣を取り出して構え、ヒンメルは切っ先をギムレーへと向けた。
ク、とギムレーの口から笑い声が溢れ出てくる。腹を押さえ、ギムレーは面白くて仕方ないと言いたげに笑う。
「まさか、それで僕を殺す気かい? 無駄だよ。僕を殺せるのは僕自身でないと。その手段も――ないのだけれどね」
己の胸に手を当ててギムレーは柔和に笑う。まるでルフレのように。それが悔しくてヒンメルはぎり、と奥歯噛んだ。
「……この短剣は攻撃用でもあるけど、こういう使い方もあるんだよね」
ギムレーに向いていた切っ先がくるりと回転し、ヒンメルは逆手持ちで短剣を握ると己の喉元にひたりと突き当てた。ギムレーが僅かに驚いたように肩眉を上げる。
「……それで? 次はどうするのかな?」
「人質ってのは交渉材料として生きた『人』間を『質』にして、条件とかつけて解放しなきゃいけないものじゃん? だったら死体になってやろうかなって」
「……よせ、そんな事をしても……」
ギムレーの声にらしくもなく焦りが伺える。しかしヒンメルは追撃を止めない。
「何もならないって? あるよ。私はルフレが好きだった。愛おしかった。でも今のあんたは邪竜に呪われてる。それは私の好きなルフレじゃない。どうせ死ぬなら――私は、今此処で死んでやる」
壁際まで走り寄り、ギムレーの邪魔が入らない距離を空ける。これならばすぐに何かの魔術を掛けてくるという事は無さそうだ。そうして改めて短剣を喉元に突き立てる。
「おい、やめろ人間! 自ら命を絶つなど愚の骨頂だ! 早く剣を下ろせ、――やめてくれ、ヒンメル!」
「っ!」
ギムレーの中のルフレが反応したのだろうか。彼は苦しそうに胸をもがきながらヒンメルへ手を伸ばす。
「あ――」
その時ヒンメルが見えた『ギムレー』は『ギムレー』でなく、仲間として、恋人として、自警団の一員として共に何度も苦難も夜も超えたルフレの顔があって。
ふわり、とヒンメルは笑う。
「よかった、最後にルフレに会えて」
「やめてくれ、やめてくれヒンメル! 思い直してくれ!!」
「私が死なないと人質として利用させられちゃうから。それは嫌だし……」
「お願いだ、ヒンメル……っ!」
泣きそうになるルフレの顔なんて見たのは初めてだ。珍しいなぁ、なんて思いながらヒンメルは突き立てている短剣に力を込める。
皮一枚を裂き、つ、と血が流れていく。
「ルフレに会えて、私は嬉しかったよ。ルフレがどんな宿命に生まれようとも、邪竜の血を引いてて呪われていようとも、この想いだけは変わらない」
「やめてくれヒンメル!」
「じゃあね、ルフレ。大好きだよ」
満面の笑みで別れを告げ、ヒンメルは喉元に短剣を突き刺した。鮮血が飛び散り、事切れたヒンメルがゆっくりとその場に倒れていく。
「ヒンメル……?」
震える声でルフレは彼女の名を呼ぶ。横たわったヒンメルの前までフラフラと向かい、膝を折るとそっと手を伸ばして触れてみる。しかしヒンメルは微動だにせず、血だけがどくどくと溢れて床を汚していく。
「嘘だろう……? ねえ、ヒンメル」
彼女の亡骸を抱え、強く抱きしめる。
邪竜の血を引く者は生者の消えた部屋で独り慟哭し、そしてその心を失った。