非想非非想処に帝は非ず
私の勤める《往生堂》には、とても素敵な客卿が居る。
鍾離先生。すごく物知りで、どんなことにも精通している凄い人だ。私を始め、彼を知る人は敬意を込めて『先生』と呼んでいる。
ただ、そういうと先生は困ったように笑って「少し人よりも詳しいだけだ。その筋を極めている者には及ばない」と言う。謙遜、しているのだろうか。儀式に精通している私や堂主すら知らないような……随分と前に廃れてしまった儀式の方法にだって詳しい先生の話は、いつだってタメになることばかりなのに。
物腰も落ち着いていて正に『大人』という人で、そんな素敵な人を好きにならないという方が不思議なわけで。……まあ、少しばかり浮世離れした感じのする人というか、モラを持ち歩く習慣がなくて、先生に同行した私が代わりに財布の紐を握る場面も多々あるけれど。きっとそれも愛嬌だ、うん。
そんな先生は市井だけではなく、天穹の谷や琥牢山と言った璃月各地にも散策へ赴く。そんなときに護衛としてお供する、大変名誉のある《契約》を結ぶことになった相手こそ、何を隠そう私だった。
先生は岩元素の神の目を持っていて、バリアを張ることに長けている。槍の使い方だって匠だ。だから私の護衛なんて要らないんじゃないか……と契約を結ぶときに言ってみたが、
「俺一人ではままならないこともあるだろう。それに、お前の風元素の力は散策に向いている」
と、能力を買われているのが分かれば首を縦に振る以外の選択肢なんて無くて。
先生は色々な話を聞かせてくれるのでとても勉強になる。先生が楽しげに、柔らかい表情で話す様子も好きだ。
先生はいつか璃月以外の国も行きたいと前に口していたから、側に居られるのは『その時』までかも知れない。堂主が許可を出してくれればどこまでもお供したいが、私は先生の護衛の前に《往生堂》人間だから。
だから、それまでは――
その願いが変わったのは、璃月が慌ただしくなった『あの日』だった。
◆◆◆
「え? 鍾離先生、まだ戻ってないんですか?」
「そーなの。一体北国銀行に何の用事があるのやら……」
その言葉に幾つもの木札を抱えて運んでいた凰禪は足を止めた。
困惑する凰禪の視線の先でやれやれと肩を竦める少女はこの《往生堂》の堂主を務める胡桃で。適当な椅子に腰掛け、退屈そうに足をブラブラとさせる。
夕方頃までは鍾離と行動を共にしていたが、「少し用事がある」と途中で別れたせいでそれ以降顔を合わせていなかった。しかし彼は此処の客卿で、寝泊まりも堂内の一室でしている。そろそろ戻ってきている頃合いかと思っていたのだが……。
「ほら、いま魔神オセルが復活しただとか、それを旅人が倒したとかで此処もバタバタしてるでしょ? 鍾離先生の力もちょーっと借りたいなって思ったんだけど」
それも無理かあ、と胡桃は唇を尖らせる。居ないのなら仕方がない、他の従業員たちでどうにかするしかないと立ち上がって店の奥へと向かっていく胡桃を見送りながら凰禪は考え込む。
もう大分日も傾いている。璃月港だって慌ただしい。そんなタイミングでわざわざスネージナヤが運営する《北国銀行》に用事とは、一体何だろう。北国銀行と言えば彼が懇意にしているタルタリヤという男が居るが、この時間に行くほど急を要することなのだろうかと思ってしまう。
そして何より――何故か、酷く胸騒ぎがする。此処でぼうっとしていれば取り返しがつかないことが起きるような、漠然とした不安感と焦燥感。
抱えていた木札をぶちまけるような勢いで手近な机に放り投げ、凰禪は往生堂の玄関へと向かっていく。誰かのどうした、なんだ、という声がする。
「すいません! ちょっと席外します!」
勢い良く扉を開け放ち、ざわめきを残す市街を走る。
一度も足を緩めることなく北国銀行へと辿り着き、息を整えた凰禪はごくりと息を呑み、扉に手を掛ける。
扉は想像より軽い調子で開く。
「あら、新しいお客さん?」
「やあ、凰禪。こんなところで会うなんて奇遇だね」
「……!? 凰禪?」
真っ先に視界に入ったのはスネージナヤ風の大胆な衣装に見を包んだ女性と、にこやかに笑ってひらりと手を振るタルタリヤと、こちらを振り返って驚いたように目を見開いた鍾離だった。
凰禪を視認した鍾離が一瞬視線を彷徨わせ、開きかけた唇を真一文字に結ぶ。たったそれだけなのに、どうしてかズクリと胸が痛んで凰禪は胸元の服をぎゅっと掴んだ。まるで知られたくなかったことを知られてしまったときのような、他者と距離を空けるかのような素振り。
ずっと側に居たはずなのに、そこにいる鍾離と心の距離がずっと離れてしまったように思えて。なんて言葉を口にすべきなんだろうと凰禪が言葉を選んでいると、「大丈夫?」と声を掛ける姿があった。
「……蛍ちゃん、パイモンちゃん」
口から出た声は気持ちに呼応しているかのように弱々しく。
その声に導かれるように顔を動かせば、心配そうな表情をしている旅人とパイモンが居て。
しかし二人のお陰で少しだけ勇気が湧いた気がする。「大丈夫、ありがとう」と笑顔を作ってそう言うと、背筋をしゃんと伸ばして三人の方へと向き直った。
「そちらの方は初めまして。私は《往生堂》に勤めている凰禪と申します。こちらの鍾離先生のお帰りが遅いため、私がこちらに足を運んだ次第です」
「ご挨拶ありがとう。《淑女》とでも呼んで頂戴。それにしても……随分と可愛らしい子に慕われているみたいじゃない、《岩神》モラクス?」
「――え、」
クスリと妖艶に笑う淑女は、いま何と言ったか。
後頭部をガツンと殴られたかのような衝撃が凰禪を襲い、思わず足元がふらりとおぼつかなくなる。その様子が面白かったのか小さく笑った淑女は続ける。
世界が遠くなるような感覚を覚える。咄嗟に見つめた鍾離は、こちらを見ていなかった。
「この男と私はね、《契約》を結んでいたの。岩神として『全て』を終わらせる契約を結ぶ代わりに《神の心》を明け渡すとね」
淑女が何を言っているのか、分からない。言っていることは確かに伝わっているのだが、脳が理解を拒む。
鍾離が岩神? 全てを終わらせる《契約》? 《神の心》?
送仙儀式でモラクスが死亡して落ちてきたのも、儀式を旅人たちと一緒にやり直したのも、全てがフェイクだったということなのだろうか。
往生堂で《鍾離》として過ごしていたのも、何もかも――嘘だったと言うのだろうか。
「……じゃあ、じゃあ」
じゃあ、何なのか。
聞きたいことが多すぎて纏まらなくて、探した言葉は口から出る前に喉でつっかえ、消えていく。
「凰禪」
鍾離が踵を返し、凰禪へと目を向ける。不安げに凰禪が彼を見上げればようやく目が合ったような気がして。
一度瞑目し、不思議な虹彩を放つ黄金の瞳を開いた鍾離が静かに口を開く。
「……お前に全て黙っていたことは申し訳なく思っている。だが一切を口外しないことも《契約》の内だったんだ。そこは了承願いたい」
璃月は《契約》の街。何においても契約は絶対で、だからこそ璃月は商売が盛んな街となったのだ。契約不履行が何より恐ろしいこの街で金銭のやり取りをすれば、それは石のように盤石な《契約》になるから。
鍾離は事の顛末を語り始める。
六千年以上神として生き、三千七百年前から璃月の統治者として君臨していた岩神モラクス。海ですら穿てない岩も、長い時間が過ぎれば少しずつ摩耗し、削れていく。
ある日、市井を歩いていたモラクスは何気ない会話を耳に留めた。「君は君の責務を果たした。今は休むが良い」と。
モラクスは自身に問い掛けた。「俺は、俺の責務を果たしたのだろうか」と。
神の座を降りようと考え始めた時、モラクスは離れられない理由が多すぎることに気付いた。神と共にあるこの璃月が、果たして神無き時代を切り拓けるのかと。人が人だけで生きていけるのかと。
その様子を観察する時間と、決断するきっかけが欲しかった。だから偽りの死を計画し、《公子》タルタリヤ、仙人、璃月七星、そして旅人を巻き込んだ。
復活した魔神オセルに璃月が苦戦するようなら、手助けするつもりでは居た。そのために神の心はこの時まで取っておいたのだ。
しかし親を失った子が「立ち上がらねば」「自分が頑張らねば」と奮起して急成長するように、璃月に住む者たちは『神の死』によって急成長を遂げた。
ならば、もう自分の出る幕は無いだろう。全てを見届けた鍾離はこうして契約通り神の心を淑女に明け渡した。渡したタイミングでやって来たのが凰禪だったというわけだ。
全ての話を聞いても尚、何と声を掛けたら良いか凰禪には分からなかった。お疲れ様でした? 私を騙していたんですか? どれも合っているようで、どれも違う気がする。
言い淀んでいると「戻ろうか」と優しい声が降ってきて、こくりと力無く頷いた凰禪は鍾離と共に往生堂へと戻っていった。掛ける言葉は、見当たらないまま。
そして翌日。璃月港の大広場で中断されたままだった送仙儀式が璃月七星の凝光と刻晴によって取り進められ、その様子を少し離れたところで凰禪と鍾離は眺めていた。
刻晴のスピーチを聞きながら、隣に立つ鍾離をちらと見上げる。
「あの、鍾離先生……」
「ん? どうした、凰禪」
いつもと変わらない調子で鍾離は凰禪に目を移し、首を傾げる。
いつもと変わらない、いつもの鍾離。その様子に少し安堵を覚えたが、凰禪の手は縋るように鍾離の服を掴んでいた。
昨日の夜からずっと考えていたこと。胸の奥でつっかえていたものがある。だけどずっと抱えているわけにもいかず、意を決して凰禪は口を開いた。
「先生は……先生は、私を置いてどこかに行ったりしませんよね?」
不安げに鍾離を見上げる。
鍾離の正体を知って、思惑を知って、こんなにも側に居る彼の存在が随分と遠くに感じてしまった。手を離してしまえば永遠に繋げないような、遠くに行きかねないような。そんな風に考えてしまって。
ふむ、と鍾離は口元に手を当てて思案する。
「……俺はまだ、璃月全土を旅していない。今はまだ此処に留まっているが、次期に移動するだろう」
「う……で、ですよね……」
しゅん、と俯いてしまう。いま顔を上げれば涙が零れそうだった。
璃月を周り終えたら、その次はモンドか稲妻だろうか。その次はフォンテーヌ、スメール、ナタ、スネージナヤ……。そうして七国を巡るのだろう。
しかしその時、自分は? 彼の側に居られるのか? ずっと彼の側に居たい。だけどその願いは叶えるのが難しくて。
「だが、」
ポン、と頭を撫でられる。見上げた鍾離は柔らかく微笑んでいて。
「《鍾離》はお前と《契約》を結んでいる。一緒に来てくれるんだろう?」
「……!」
パッと凰禪の表情が明るくなる。喜びのまま、凰禪は鍾離の胸に飛び込んだ。
「……はいっ! どこまでもこの凰禪、お供します!」