匪躬

 あの日見た、彼女の顔の顔が忘れられない。
 俺を見つめる、不安そうに揺れる瞳。何か言いたげなのにきゅっと唇を結び、悲しそうに視線を逸らす。俺が声を掛ければ、気丈に笑いかけてくる。
 その一挙一動が、声の抑揚や視線の運ぶ先が気になってしまう。彼女から視線を離せなくなってしまう。
 彼女が不安そうな、悲しそうな顔をしていると胸の中心辺りがどうにもざわめく。その不安を拭い去ってやりたいと思うが――その原因を作り出したのは、紛れもなく俺自身で。

 どうすれば良いのか、この気持ちはなんなのか。
 そんな気持ちを抱えたまま、それでも俺は送仙儀式を見送って――


◆◆◆

「なる程、鍾離先生。それは恋だよ」

 ぱちぱちと箸を鳴らし、肩を揺らしてカラカラとタルタリヤは笑う。「行儀が悪いぞ」と嗜めれば「ちぇ」と唇を尖らせた。
 《瑠璃亭》の一角で和やかに食事が進んでいく。傍から見れば成人男性二人の何てことない食事のワンシーンだが、まさか――方や璃月港を守護して来た『岩神モラクス』、方や璃月港を一時期は混迷の渦を巻き起こしたファデュイが《執行者ファトゥス》、その第十一位の座を頂く《公子》タルタリヤだとは余人は夢にも思わないだろう。
 タルタリヤは水晶蝦を箸でつつく。つるりと茹で上がり、ぷるぷるとした弾力を持つ水晶蝦を掴むのは、箸の扱いに不慣れなスネージナヤ人には些か難しいことなのだろう。どう喰らってやろうかと箸の動きが悩ましげだ。

「身を焦がすほどの熱情。何にも代えがたい程の恋情。誰かの一挙一動に悩んだりして、自分の手中に収めたいと思ってしまう。……良いんじゃない? 凡人は好いたり嫌ったりするものだよ」

「ふむ。公子殿にも経験が?」

「俺はどうかなあ。ほら、俺は強い奴と楽しく戦えれば良いし」

 屈託なく笑う。その表情だけ見れば、まるで夢を無邪気に語る青年のようで。
 静かに茶を啜り、鍾離はタルタリヤの言葉を心の中で反芻する。
 恋。それがどういうものかは知っている。それは幾千年、幾百年前から本の題材にされているし、詩に詠まれ、講話師が語り継ぐ。特定の異性を気になり、大切にしたいと、一緒に居たいと願う感情のこと。

「俺が、凰禪を妹のように想っているということは?」

「まあ、そういう可能性もあるよね。先生は往生堂で働いているんだし。家族愛や親愛って言い換えれば良いのかな? でもさ、」

 ようやく水晶蝦を摘めたタルタリヤはそれを口に放り込んで咀嚼し、箸を指揮棒のように揺らして笑う。

「――俺が凰禪と恋仲になって、仲睦まじくしている様子を想像してごらんよ。どう? それでもその気持ちは親愛だ、家族愛だって言い切れる?」

「――それ、は」

 一瞬、言葉が詰まった。
 想像してみる。二人が親密そうに身を寄せ合い、愛の言葉を囁く姿を。そうして身を寄せた二人は口付けを交わすのだ。
 途端、心臓が見えない手に強く鷲掴まれたかのように脈打つ。ズグリ、と痛むそこを無意識に押さえれば、タルタリヤは肩を揺らす。

「ほら、面白くない気分だろう、先生? きっと俺から奪いたいと思った筈さ。その場所が自分ならと願った筈だよ」

 そうだ。その場所が自分ならと願ってしまった。
 凰禪の側に居たい。笑顔を向けられていたい。知識を与えて彼女の構成する一部分にさえなりたいと思うし、いま結んでいる《契約》が終わっても尚、新たな契約を結んで世界を共に周りたいと思ってしまう。
 自分の手中に収めて、花を愛でるように愛したい――そう願うのも、凰禪を好いているからだろうか。
 
「公子殿がそういうのなら、俺はきっと凰禪を好いているんだろうな。……しかし、俺は彼女を泣かせてしまった」

「俺にもその申し訳ないって気持ちが小匙一杯分くらいあれば良かったんだけどなあ」

 まあ、とタルタリヤは一拍置くと、

「淑女との《契約》で話せないことは説明しただろう? それはあの子だって納得してる筈だ。ここは璃月、《契約》の街だからね。だけど先生に心残りがまだあるって言うのなら、思ったことを口にしてみたら?」

 「俺も弟妹と喧嘩した時はそうしたよ」と言いながら、タルタリヤは四方平和にレンゲを差し込んで小皿に取り分ける。
 手元に引き寄せた杏仁豆腐を掬い、口に運んだ鍾離は暫し思案する。
 凡人になったとして、それでも自分は凰禪と同じように時を刻むことが出来ないだろう。老いていく彼女に対して、いつまでも若々しい姿の自分。凡夫に成り下がったとして、それでも未だに神性を残す自分。
 彼女とは《岩神モラクス》ではなく《鍾離》として出会った。だからこそ、正体を明かした自分を受け入れてくれるのか――不安で。
 それを含めて、タルタリヤはきちんと話し合えと言ってくれたのだろう。対話は理解への一歩だ。
 今度、改めて場を設けてみようか。そう思いながら鍾離は杏仁豆腐をつつく。そんな彼を眺めながら、密かにタルタリヤは笑うのだった。

 ――神さまも、随分と俗世に馴染んできたものだ。


◆◆◆

「鍾離先生っ! こんにちは!」

「ああ、来たか凰禪

 そうして明くる日。鍾離は凰禪を璃月港の玉京台に呼び出した。鍾離の姿を認め、パッと表情を明るくした凰禪がととと、と駆け寄ってくる。

「今日はどちらに赴かれるんですか? 霊矩関の石碑巡り? それとも層岩巨淵ですか?」

「その前に、少し歩かないか?」

「……? はい!」

 不思議そうにしながらも首肯した凰禪は鍾離の隣に並び、二人は崖下に広がる璃月港の街並みに目を落としながら歩いていく。さわさわと流れていく潮風が心地いい。

「……お前の瞳には、俺はどう映っている?」

「え?」

 ポツリと呟かれたその言葉に、凰禪は首を傾げる。そうして指を口元に持っていって思案し、

「……先生は、先生じゃないんですか? 昨日も今日も、明日も往生堂で講和して、私を色んなところに連れて行ってくれて、知らないことを教えてくれる。人よりもちょっと物知りな、素敵な鍾離先生だと思ってますよ」

 その語り口は静かで。歩調のようにゆったりと紡がれていく。

「しかし、俺は《岩神モラクス》だ。神の心を明け渡したとは言え、それでも未だ神の力を持っている。ヒトの姿を象っているが、ヒトならざる存在だ。それを、お前に伝えられないままでいた」

「それは……その、ちょっとビックリしましたけどね」

 凰禪は困ったように眉を下げて笑う。そして、

「……私、先生が何者だって良いんです。私が出会って、接してくれたのは紛れもなく『鍾離先生』なんですから。でも……」

 脳裏に浮かぶのは、酷薄に笑う淑女の笑み。艶やかな紅の乗った唇が象る真実の言葉。
 服の裾をキュ、と握り、去来した胸の痛みに耐えるように凰禪は笑う。少し不格好な笑みだ。

「本当のことは……先生の口から聞きたいなって少し思っちゃいました。何だか……先生との距離が凄く離れたように感じちゃって」

 いつの間にか、二人の歩は止まっていた。
 足を止め、凰禪と向き直った鍾離が名を呼ぶ。素直に顔を上げた凰禪の双眸には、自分の姿とその向こうの空だけが映っていた。
 ――俺だけが、映っている。
 その事実に得も言われぬ気持ちが鍾離の胸中で渦巻く。安堵感、高揚感、独占欲、どの言葉を当て嵌めたら良いか分からないその感情に突き動かされ、鍾離は凰禪の頬に手を伸ばす。
 ぱちり、と丸い瞳が瞬く。

「先生?」

「――お前に、嫌われたかと思った。嫌われるのが怖いと思った」

 ポツリと零された言葉は盤石な石に落とされた雨垂れのようで。

「その感情の理由が知りたくて悩みもしたが……漸く理解出来た」

 柔らかく微笑み、鍾離はその言葉を紡ぐ。

「俺は――お前を愛している」

「せん、せ」

 ドクドクと心臓が高なっていくのが分かる。鼓膜に響く音がうるさい。
 聞き間違いでなければ、いま彼は凰禪を好いていると言ってくれた。素敵だなと思っていた、片思いをしていた素敵な先生が。
 それはとても嬉しい。正しく天にも昇る心地と言っても良いのだが――
 その、と凰禪は上目遣いで鍾離を見上げる。

「私で……良いんですか? 先生は素敵な方です。私よりも、もっと素敵な女性が」

 「居るはずです」という言葉は、迫ってきた唇によって塞がれてしまった。
 肺が酸素を欲してきた頃、ゆっくりと名残惜しそうに唇が離れていく。間近にあった不思議な虹彩を放つ金赤の瞳が僅かに伏せられる。

「俺は、お前だからこの気持ちを抱いた。お前が許すのなら、この先も俺は《契約》を結んで共にありたいと思っているんだが……」

 駄目だろうかと続けられて、どうして断れようか。
 祈るように手を組み、ふわりと凰禪が笑う。その笑みは花が綻ぶかのように艶やかで。それを見て、鍾離も表情を崩すのだった。
 ――嗚呼、やはり彼女は笑顔で居てくれる方が断然良い。


2021/09/28