管鮑の交わり
静謐な空気を纏う《往生堂》の書斎。その室内に用意されている机に向かっている姿が一つあった。
目を通していた分厚い本を閉じ、凰禪は大きく伸びをした。長い時間同じ体勢で本を読んでいたから全身が強張ってしまっている。ううんと一つ呻き、そして小さく欠伸を漏らす。
《往生堂》内にある書斎は璃月に伝わるあらゆる葬儀の礼節や行い方が書かれている本が置いてあるのは勿論、他七国の葬儀に関する本、そして璃月の歴史についてに書かれた歴史書なども置いてある。歴史を知らねば、神を知らねば正しく送れないと言葉を残したのは誰だったか。
傍らに手を伸ばし、持ち込んだ茶器に入っているお茶に口をつけた。とうに冷えてしまって風味の落ちてしまったソレは、凰禪がどれだけ本に没頭していたかが分かる。
苦味ばかりが際立ってあまり飲めたものではないが、喉を潤すには十分だ。こくりと喉を上下させて飲み干し、ふうと息を吐く。
閉じた本に視線を向け、背表紙を優しく撫でる。それは岩王帝君が各地で行った偉業を纏めた本だった。
彼が自分を選んでくれた。彼が自分を好きだと言ってくれた。それは正しく天に昇るかのような幸福感を与えてくれたが、その甘さと優しさ、愛情を一心に受け入れるにはまだまだ己は未熟だと凰禪は考えていた。
武器を扱う術も、知識も、人間としての器量だってまだまだだ。胸を張って鍾離の隣に並び立って「恋人です」と言えるかと問われれば……あまり自信がない。
だから本を読む。一冊でも多く。
だから学ぶ。素敵な人間になるために。
「うぅーん……今日は此処までかな」
本を所定の位置に戻し、空になった茶器を手に凰禪は立ち上がる。
明日は仕事が終わったら鍛錬代わりに奥蔵山にいるヒルチャールたちを討伐しに行くと決めている。その翌日は骨董品の目利きの講習へ。
はあ、と小さく嘆息する。
「先生とお出かけするのはまた今度かなあ……」
当分行動を共に出来ないのは残念だが、これも立派な女性になるために必要なことだ。よし、と気合を入れて凰禪は書斎を後にする。
それから数日後……。
「凰禪。今から南天門の方に行くんだが……」
「あっ、鍾離先生! すみません、今日はこの後葬儀に付き添う約束が……」
しゅん、と分かりやすく落胆してみせる。仕事の用事が入っているのなら仕方がない。鍾離が「ではまた後日誘おう」と言えば凰禪はぱあっと顔を明るくさせ、何度も頭を下げてから胡桃の方へと駆けて行った。
「岩上茶室に向かおうと思うんだが、良ければお前も……」
「ごめんなさい先生! 今日は往生堂の書斎に用事があって……!」
「……そうか」
手を合わせて申し訳無さそうにする凰禪。彼女は常に勉学に励もうとするから、そういう日もあるだろう……と、鍾離は己に言い聞かせた。
一人でのんびりと茶と風景を楽しむのも悪くない。しかし今日は凰禪が共にしてくれるであろうという前提でいた為、一人で嗜むには些か寂しさを覚えてしまう。
書斎の方へ向かっていく凰禪の背中を見送りながら、ならば他の誰かを誘おうかと思案するも、適切な人物が思い浮かばなかったので鍾離は残念そうに頭を振る。旅人は今頃スメールだろうし、タルタリヤも稲妻に行っていると風の噂で聞いた。
それに――凰禪だから誘おうと思ったのだ。彼女と様々なことを共有したくて、同じ物を見聞きしたくて誘った。ならば空いた隣に別の誰かを据えるのは違う話だろう。
茶屋には別の日に凰禪と共に行けば良い。そう考えた鍾離は万民堂で昼食を摂るべく往生堂を後にした。
また後日……。
「凰禪、今日は……」
「ごめんなさい!」
…………。
「……という訳で、公子殿の意見を仰ぎたい」
「え、待って先生。ひょっとしてそのためだけに稲妻に来たの?」
稲妻城に居を構える料亭《烏有亭》の一室。広い机に所狭しと並べられた稲妻の名物料理たちを前に、タルタリヤは色々待ってくれと示すように片手を挙げ、机を挟んだ向こうに居る男へ疑問を投げかけた。
黄金に輝く卵焼きに箸を入れ、大根おろしと醤油を掛けて鍾離は頷く。
「ああ、そうだ」
「えぇ~……」
本人は至って真剣なのだろう。真面目にタルタリヤから意見を聞きたくて、わざわざ璃月から稲妻に足を運んだ。彼の思い切りの良さと行動力には舌を巻くしかない。
だからこそこの突飛な鍾離の行動に頭を抱えざるを得ない。重苦しくため息を吐いたタルタリヤはかに味噌の甲羅焼きを手元に引き寄せるとスプーンを入れる。
今日は鍾離持ちの食事会だ。どうせなら高い料理をじゃんじゃん食ってやろうと半ば自棄気味になりながらも甲羅焼きを口元に運び、咀嚼したタルタリヤは今までの経緯を簡単に纏める。
「それで……何だっけ? 凰禪に避けられてるかも知れない……っだっけ」
纏めておきながら、いやいやそれは無いだろうと心の中で突っ込む。
鍾離への『好き』を体いっぱいで表現している子だ。そんな凰禪が鍾離を避けているとなると、何らかの事情があるからという結論に辿り着くのはそう難しいことではない。
しかし目の前で箸を進めている鍾離といえば物憂つげな表情だ。
「いつから避けられてるんだい?」
「先週辺り……からだろうか」
「先生が凰禪の気に障るようなことを言ったとか」
「その可能性は否定出来ない。……が、避けられる直前も特に変わった話をした記憶はない」
汁椀に手を伸ばしながら鍾離は考え込む。
神であるが故に記憶力には自信がある。此処数日の凰禪との会話のやり取りを事細かに思い返しても、別段変わったところの無い内容だったとしか言えなかった。
「じゃあ先生のこと嫌いになったんだよ…………いやいや冗談だって、そんな怖い顔しないでってば」
ああ怖いと茶化しながらタルタリヤはキノコピザを切り分け、チーズが垂れない内に口へと運んだ。
とろけたチーズの美味しさというのは格別だ。舌鼓を打ちながら他の可能性を考える。
「後は……本当に忙しかったとか? ほら、凰禪って努力家だし」
「成る程……」
鍾離も頷く。
そう、凰禪は努力家だ。まだまだ未熟だからと武芸も知識も研鑽に励んでいて、常に向上心を抱いている。そういう姿勢はタルタリヤも好感が持てた。
――武芸を磨いた先。将来が非常に楽しみだと零せば眼の前の男の顔が苦くなるのは明白だが。
まあ、人間の体は一つしかない。往生堂での仕事もあるだろうし、武芸や教養を学ぶために時間を割けば、鍾離と出掛ける時間を作るのは難しくなってしまうだろう。
タルタリヤは刺し身の盛り合わせに箸を伸ばす。タルタリヤが伸ばした箸の行方を見守った鍾離がサッと視線を逸したので、それが愉快でタルタリヤは肩を揺らす。
「結局のところ、本人に聞かなきゃ理由なんて分からないさ。そうだろう?」
「公子の言うことには一理ある。だが……」
考え込む……と言うよりは言葉を探している素振りで手元に視線を落とす鍾離。
長年生きていても、その感情や気持ちに適切な言葉を探して当て嵌めるのは難しいのだろう。暫し見守っていたタルタリヤだったが、見かねたように軽く笑うとソレを口にする。
「先生はさ、怖いんだよ」
「俺が、恐怖を?」
何を馬鹿なと言いたげな表情にまあそうだろうなと納得する。
けれど鍾離の想像している『恐怖』とタルタリヤの言いたい『恐怖』は種類が違う。恐れや畏怖、憂慮ではなく――
「深く立ち入ったことを聞いて、凰禪に嫌われるのがさ」
――『不安』だった。
二人の間に線引きされた境界線を踏み越えた時、どうなってしまうのか。
凰禪なら笑って許してくれるであろうとも思うが、そんなものは所詮鍾離の憶測でしかない。本当に聞かれたくない事情だったとして、無遠慮に聞いてしまったその時、嫌がられでもしたら――想像したくはなかった。
「……きっとそうなんだろうな。俺は凰禪に嫌われたら……恐れられたらと思うと、どうしても二の足を踏んでしまう」
神妙な表情をしながら鍾離は湯呑に手を掛け、静かに口へ運ぶ。そんな鍾離にうんうんと相槌を打ちながらも、内心で「先生の杞憂なんだよなぁ」と思っているのがタルタリヤだった。
恋愛は人を臆病にすると言うが、神さまも当て嵌まるらしい。常人とは異なる枠組みの中で生き、多くを知っている鍾離ですらこうなのだから。
箸を箸置きに一旦起き、タルタリヤは畳に手を付く。
「でも、だからと言って聞かないままじゃ一生このままだよ。先生」
「良いの?」と首を傾げれば鍾離は首を横に振る。
まあそれもそうだろう。それで良かったのなら遠路はるばるこうして稲妻くんだりまで足を運んでいない。
「まあ凰禪は悪い子じゃないし、先生は思ってるような悪いことにはならないと思うけどね。駄目ならまた話くらいは聞いてあげるよ」
「俺の奢りでか?」
「そ。先生の奢りで」
片手を振るっておどけるように言えば、その不思議な虹彩を持つ双眸を瞬かせた後で鍾離はクスリと笑みを零した。
「……ああ、そうだな」
聞かなければ進展しない。相手を知らなければ距離を詰められない。改めて悩むのは一歩進んだ先でも良いだろう。
静かに茶を啜る。璃月に戻るのが少しだけ、楽しみになった気がした。
◆◆◆
「凰禪」
「あ、先生!」
書斎の扉を開けて凰禪の名を呼べば、差し込む夕焼けに照らされながら机に向かい、分厚い書物に視線を落としている凰禪の姿があった。凰禪は鍾離の姿を認めると本から顔を上げ、パッと笑いかける。
大分明るい時間から読書に勤しんでいたのだろうか。凰禪の傍らには山ほど積み重なられた本と湯気の立っていない茶器一式が置いてある。
「先生も本をお読みに?」
「いや、お前に用事があって来たんだ」
咳払いをして一呼吸起き、鍾離は口を開く。
「その……最近お前と時間が取れないような気がしてな」
「あっ……それは」
凰禪の方も心当たりがあるという表情だ。バツの悪い顔をして、亀のように首を縮こめる。
「その……すみません。私は先生と《契約》してるのに……」
「いや、責めているわけではない。理由あってのことなんだろう?」
まるで詰問しているような状況になっていることに気付き、鍾離は努めて柔らかな声音で諭す。
凰禪の瞳が困ったように宙を右往左往する。少しばかり視線を泳がせた凰禪は口元を手で隠し、何処か恥ずかしそうに頬を赤らめさせる。
「その……」
「ああ」
鍾離は言葉を待っている。優しく、穏やかに。
そういうところが素敵で、同時にズルいなと思ってしまう。彼にそんな気はなくてもそんな風に待たれてしまったら、否が応でも曝け出してしまいたくなる。
一番知られたくない相手にバレてしまうのは恥ずかしさ此処に極まれリと言った感じだが、こうして鍾離を困らせたりするのは凰禪の本意ではない。
凰禪は深く息を吸い、吐き出す。
「その……先生の隣に並び立てるような素敵な女性になりたいって、思ったんです。私は武器の扱いだってまだまだだし、知識だって劣ります。器量だってないし……」
どんどん語気が弱まっていく。それは自信の無さの現れだった。
昨日今日で目覚ましい成果なんて出るわけがなく、朝起きて覗き込んだ鏡の中には昨日と大差ない自分が映っているのだ。
分かっている。成長するには時間が掛かることが。だからこそもどかしいし、改めて言葉にしてみれば泣きたくなってしまう。
迂愚な話だと鍾離は笑うだろうか。ちらりと顔を見てみれば、鳩が豆鉄砲を食ったように鍾離は僅かに目を見開いていた。
「……理由はそれだけか?」
「は、はい。全部です、けど……」
そんなに下らなかったかと不安になる凰禪と対象的に鍾離は緩く笑みを零す。凰禪はただただ頭に疑問符を浮かべるばかりだ。
困惑している凰禪に気付き、鍾離は「ああ済まない」と口元を手で覆う。が。その奥の笑みは隠しきれてなかった。
「お前に嫌われたのかと思ってな。俺の取り越し苦労で良かった」
「え、え、えぇ!?」
素っ頓狂な声を上げ、思わず椅子から立ち上がりながら凰禪はその大きな目を更に大きくした。
まさか。そんなことは天地がひっくり返ろうとも有り得ないと言うのに!
凰禪は胸の前でグッと握りこぶしを作って力説する。
「絶対絶対、私が鍾離先生を嫌いになるなんてあり得ません!!」
「ハハ、そうか」
凰禪に歩み寄り、その柔らかな髪に手を置いて撫でる。
「……無理に成長する必要はない。俺は元より長くお前を見守るつもりだ。それに……」
チラ、と鍾離は机に視線を向ける。そこに積まれている本の中には岩王帝君の偉業や歴史を纏めた本が幾つか見受けられて。
鍾離はわざとらしく咳払いをする。
「……岩王帝君についてなら、俺が詳しいと思うが?」
「……!」
凰禪はぱちりと双眸を瞬かせ、恥ずかしそうにへにゃりと表情を崩して笑う。
「……えへへ、そうですよね。岩王帝君についてなら先生が一番です!」
だったら焦らず、ゆっくり成長していこう。背伸びする必要はないと言ってくれたのだから。
「そうだ。凰禪に紹介したい店がある。お前さえ良ければ夕食を共にしないか?」
「是非!」
花咲くような凰禪の笑顔を見、鍾離も僅かに微笑む。
こうして心が暖かくなることが、彼女を愛おしいと思うことが『誰かを愛すること』なのだろうと考えながら。