青の在証
上等そうなチェアに腰掛けながら、五条は手元のスマホをタップして操作する。最新型のソレは滑らかな動きで画面が動き、フォトフォルダが表示される。
画面をスワイプ。動画を一つ再生。流れ出したのはスマホで撮ったとは思えない程画質が荒く、画角も横に短く縦に大きい。明らかにガラゲーで撮られた動画だろう。
それを大事にしている。携帯を買い替える度、何度もデータを移して保存している。そうして何度も繰り返し再生する。これがビデオテープだったら擦り切れていただろう。
『あーこれもう撮ってる? 今から任務の打ち上げで皆で焼肉パーティーしま~す!』
『悟が桃鉄で最下位で~す。絶対最下位になりたくない傑との猛攻に硝子が笑いすぎて呼吸困難起こしてま~す』
『あっ! 馬鹿悟! 変なとこ撮らないでよ! それ消しといてよね!』
青い春が映し出される。
画面の中ではサングラスをしている若かりし頃の自分と、まだ目の下にクマを作り込んでいない硝子と、まだ離反していない上に生きている夏油が生き生きと、或いは楽しげに笑っていて懐かしさを覚える。
そしてもう一人――その三人の中に知らない顔の女生徒が混ざり、談笑している。
いや、「知らない」とは少し語弊がある。五条は彼女の事をよく知っていた。
名前はミョウジナマエ。呪術高専の同じ二年生で、将来は特級呪術師だろうと有望視されている――五条の彼女。
好きな食べ物や漫画も知っている、嫌いな食べ物だって分かっている。いい年してピーマンが苦くて嫌だと皿の端に避け、それを見かける度に夏油とつるんで小馬鹿にしたものだ。
覚えている。記憶している。
だけど――どうしても顔が鮮明に思い出せないのだ。
動画を幾ら見返しても「こんな顔だったっけ」という疑念が拭えない。動画という確かな証明があるのに、それすらも疑ってしまうのだ。
次の動画を再生する。プールの端に携帯を置き、四人でプール掃除をしながら遊んでいる内容だった。
これも覚えている。面倒臭いと硝子が渋っていたり、ナマエが五条に向かってホースで水を掛け始めたせいで掃除そっちのけで遊び始め、最後は全員揃って担任の夜蛾にこってりと怒られたものだ。
だけど記憶の中の彼女の顔は不鮮明だ。笑っているのは分かるのに目の形、鼻の形、表情の動かし方が分からない。
次の動画も、その次の動画も。そうして動画を再生している内に今度は「ナマエはこんな声だったっけ」「そもそもナマエという存在は居たっけ」となり――そこで動画の再生を止めた五条は目の前の机にスマホを放り、チェアに深く背中を預けて大きく息を吐き出した。
分かっている。これは『呪い』だ。ナマエが五条に掛けた、最初で最後の呪い。
後輩の灰原が任務中に亡くなってから、そう時間を置かない頃。五条とナマエを指名で特級呪霊の討伐依頼があり、先に一つ任務の入っていた五条は遅れて合流する手筈になっていた。
相手は特級呪霊。しかしナマエだって伊達に高位の呪術師をやっていないワケではない。一人でも戦えるだろうし、マズいと思えば撤退出来る判断力だって持っている。だから大丈夫だと思ったし、ナマエだって「あんたが来る前に終わってるかもね」なんて笑っていた。
しかし――遅れて現場である山村に到着した五条の前に広がっていた光景は惨憺たるものだった。
あちこちの家は倒壊し、或いは燃え、パチパチと爆ぜる音がする。背中を伝う汗はそれらの熱気のせいか、嫌な予感に震えた為か。
激しい戦闘があったのだろう。山村の中心部は大きな広場のように均されており、そこには息絶えた特級呪霊の亡骸と――その前で倒れるナマエの姿があって。
「おい……嘘だろ」
駆け出す。口の中がカラカラに乾いていく感覚を覚えた。募る焦燥感とは裏腹に脳内はぐちゃぐちゃと色々な思考が入り混じっていく。
判断を間違えた? 何としてでもナマエと自分で討伐するべきだったか? 呪霊の脅威を灰原の時のように見誤っていたのか? ナマエが撤退の判断を誤ったのか?
何が正しくて、何が間違いだったか分からない。この結果は必然だとも言えるような気がしたし、最悪の悪手ばかりを引いてしまったような気さえもする。
「ナマエ!! おい……!」
ナマエの所まで辿り着き、膝を折った五条はナマエの体を抱き抱えて――顔を強張らせた。
「っ……さと、る……?」
「……もう良い、喋んな」
「はは……来るのが遅い……っつーの」
「喋んなって言ってんだろうが!!」
五条の反応が面白いと言うようにナマエが微かに笑い、その唇の端から血が零れていった。
抱き起こしたナマエの体の前面は悲惨な状態だった。何処が傷口か判別出来ない程赤く染まり、明らかに致命傷な事が窺える。
――死ぬ? ナマエが? そう思った瞬間、五条はナマエの体に手を翳した。反転術式で治療しようとしたのだ。
しかし、それを断るようにナマエは五条の手首を掴んで降ろした。どうしてだ、と震える瞳で訴えれば呆れたようにナマエが笑う。
「良いって……致命傷なの、私が一番……分かるし……」
「何言ってんだよ……そうだ、俺と傑とお前で最強の呪術師になるって決めただろ? お前が行きたがってたカフェにも行ってないし、今年は皆で花火大会も見に行くって話したじゃねぇか。それに――」
「悟」
はっきりとした口調で遮られる。ハッとしたように五条がナマエを見やれば、何時になく柔らかい表情でナマエは笑っていて。
ああ、まだ逝くなよ。まだ伝えてない言葉が山程ある。やり遺した事だって沢山あるのに。
ゆっくりと呼吸を繰り返しながら、静かな声音でナマエは口を開く。
「悟はさ……これから卒業して、特級呪術師になってさ……きっと沢山の人を救ってくんだろうね」
止めてくれ。そんな言葉は聞きたくない。
「私が居なくなった後にもさ、ごほっ……ちゃんと誰かを好きになって、結婚したりして、人並みな生活を送ってよね」
そんな奴、今後もナマエ以外に現れないと言うのに。
ナマエの諦めたような言葉に小さく「ふざけるなよ」と言えば、吐き出された声は驚く程に震えていて。
「だからさ……」
五条の手首を掴む力が強くなる。
「私を忘れて――幸せになって」
ナマエの手がするりと解け、地面に落ちる。透き通ったビー玉のようだった瞳がゆっくりと濁って行くのを見送り、五条はそっと瞼を閉じてやった。
これが、ナマエの掛けた呪いだった。五条を幸せにする為の至って普通な願い。
しかし力量のある呪術師が『本来あるべきだった残りの寿命を全て使い、掛けた言霊』と言い換えれば話は違ってくるだろう。
最初は五条も特に意識はしていなかった。時折思い返してはお前が居ないのに幸せになれる筈ないだろと悪態を吐き、それでも前へ向かって歩いていった。
だけど、ある時だ。仕事で硝子に会った時、ふとした話題から高専時代の話になったのだ。そういや沢山写真とったよねなんて駄弁りながら硝子がスマホを操作して一枚の写真を表示し、五条に見せる。そこで、自分がナマエの顔がうろ覚えになっている事に気付いたのだ。
記憶は風化していく。人は忘れていく生き物だ。だから五条の中のナマエという像がボヤけていってしまうのは仕方のない事だと言えよう。
だが――灰原や七海、硝子や夏油の事ははっきりと思い出せるのに、ナマエだけ思い出す顔が不鮮明なのだ。写真を見せて貰ったところで違和感が付き纏う。
そうして気付いた。――これは呪いだ。愛という名の願いで象られた、五条を縛る呪い。
「全く……厄介な呪いを掛けたもんだよ」
目隠しの奥で蒼い瞳を閉じる。
ナマエの全てを忘れた時、彼女の願い通り幸せになれるのか。そう考えて五条は自嘲気味に笑みを零した。
お前が居ない世界で、幸せになれる筈なんて無いのに。