宇宙が零れてきたらいいのに
走る。ひたすらに走る。その少女は綺麗に結い上げた髪が乱れるのも、折り目一つ無い袴が汚れるのも厭わずに夜闇の街を駆け抜ける。時折背後を振り返って確認する様は正しく『何か』に追われているようで。少女は曲がり角を曲がり、家屋の壁に背中を付けて荒くなった息を整えた。長い距離を走ってきたからか心臓がバクバクと煩い。
息が静まって来た頃、ふうと志希は息を吐いた。此処まで逃げれば流石に追ってこないだろう。
そうしていると突然死角から腕がにゅるりと出てきて気配も無く志希の腕をぐいと強く掴み、ひっ、と志希は喉を引き攣らせた。首を動かせば下卑た笑みで口角を釣り上げる男の顔が近くにあって。いつの間にか回り込まれていたのか。嫌だ、と志希が後ずさる。しかし男の腕を掴む力は強く、引き剥がせない。
近頃はこうした夜間に女児を連れ去って売り飛ばす事件が頻発していると聞く。きっと目の前の男も同じ分類の者なのだろう。身なりが良さそうで大人しそうで、こうして呑気に夜間に出歩いている間抜けな志希を捕まえて何処かへ売り飛ばす気なのだろう。
そんなの絶対嫌だ。掴まれてる男の腕を掴んで爪を立ててみるがビクともしない。男が笑う。嬢ちゃん、観念しな。
「やだ……っ! やだっ! 誰か、誰かっ!」
恐怖で涙を目に浮かべながら志希は叫ぶ。しかし人通りの絶えた通りに当然助けの手など有るはずもなく、男の手が志希の腰に伸びた。
その時だった。何か風を切る音がしたと思ったら突然男の体が大きく傾いて地面に倒れる。突然の事にまた志希は喉を引き攣らせた。一体なんだ、と志希はしゃがみ、男の体を揺り動かす。途端手にぬるり、とした感触がした。暗くてよく見えないが鼻を近づけてみると鉄臭い。まさか、これは血だろうか。
もう何が何やら分からない。思わず腰が抜けてその場にへた込んでしまうと頃合を見計らったかのようにザア、と風が吹いて雲に隠れていた月が切れ間から顔を覗かせた。誰か、自分達の近くに立っている。
そっと見上げてみる。年は志希とそう変わらない頃だろうか。鮮やかに染まった橙の着物を着崩し、いたるところには返り血が付いている。着物と同じように鮮やかな橙の髪は月の光に反射して太陽のようにも見えた。
「あ、あの……貴方は……?」
「ん?」
しゃがみ、斬り倒したであろう男の着物の袖で刀に付着した血糊を拭きながら男は志希を見た。鼻歌でも歌いだしそうな上機嫌さに志希は喉がカラカラになっていく感覚を覚える。人を斬ったのにものともしない様子に只只恐怖が湧き上がる。
「お前が助けてって言ってたから斬っちゃったんだけど、もしかして斬ったら駄目だったのか?」
「え……?」
純粋な子供のような目で問うてくる男に志希は言葉が詰まってしまう。人を斬るのは悪いことだが、もし彼が助けてくれなければ今頃自分は拐われていただろう。返答に迷っていると男は立ち上がり、ひらりと手を振って踵を返していく。
「まあいいや。そんじゃ、気を付けて帰れよ~? また変な男に絡まれたりするかもだからな」
「あ、あのっ!」
へっぴり腰が治らない為四つん這いで何とか男の元まで言って上着の裾を掴む。男が立ち止まり、不思議そうに志希を見下ろした。
「助けてくれたお礼、させてください!!」
感じてた恐怖は何処へ。
これがただの女学生・ミョウジ志希と流浪の辻斬り・月永レオとの出会いだった。
◆◆◆
「レオさん!」
「ん~?」
大通りに面した簡素な茶屋の前に志希の声が通る。名を呼ばれたレオは緋毛氈を被せた縁台に座り、我関せずといった様子で団子を頬張っていた。志希はその傍らに仁王立ちし、肩を怒らせてる。レオは首を傾げ、わははと笑った。
「お前なんで怒ってるんだ? 意味が分からなくて面白いな~!」
「そりゃ怒りますよ……だってレオさん、つ……ええと、その、危険なお仕事してるじゃないですか。だからこんな人の往来が多いとこで堂々としてたら警官に捕まっちゃうんじゃ……」
途中で声を潜めて志希は注意をするが、何だそんな事かとばかりに笑うレオは湯気の出ているお茶を口に運ぶ。
先日志希が襲われた時の件はどうやらあの後『人が倒れている』と通報が入ったらしく大事には至らなかったが、それでもレオが大罪人の辻斬りだという事は変わらない。故にこんな白昼堂々から目立つ場所にいていいのだろうかとつい危惧してしまう。
レオはお茶を飲んで呑気に言う。
「まあ、動くのは夜の間だし顔は割れてないだろうしな~。そもそもお前心配しすぎ! えっと……志希? だっけ? 取り敢えずお前も座れ! そして団子を食べろ! 結構美味いぞ!」
「志希です……。ううん、そうなんですかね……」
自分が気にしすぎているだけなのだろうか。眉根を寄せながら志希は控えめにレオの隣にちょこんと腰を下ろした。そして彼の傍らに置かれている団子を一つ貰い、口に運ぶ。レオの言う通り美味しい団子だ。しかし食べる志希の表情は浮かない。
「はあ……レオさんにはお礼出来ないし……」
もぐもぐと団子を食べながら志希は肩を落とす。先日の事件以降、女学校の休みの合間や授業後の暇を見つけてレオに『何かお礼が出来ないか』と付き纏っているが、こうして茶屋の同行を頼まれたり街の案内を頼まれたりと、いまいち釈然としない頼み事ばかりされている。もっとこう、とても役立つ事がしたい。
「気を張り詰めすぎだぞ~? 人生もっと気軽に生きないとな!」
「レオさんほど気軽に生きていけたら良いんですけどね……」
神出鬼没の流浪の辻斬り。毎夜の夜警に捕まること無くひらりと身軽に捜査網を抜け出し、闇夜を楽しげに歩く。そんな風に身軽に、気楽に生きられたらどんなに素晴らしいだろうか。
志希はとある貿易商の生まれだ。比較的裕福な家庭に生まれた故に欲しい物があれば直ぐに手に入り、きちんとした学が身につくようにと学校に入れられ、親しい友が居て、毎日美味しい物が食べれる、そんな恵まれた家の出身だ。
見る人が見れば志希が不満を漏らせば何を贅沢に、と怒るだろう。けれども。家柄だけしか見られずに志希本人の本質を見てもらえず、制限だらけのお家は時折とても息苦しいと感じる。何をするにも重たい鎖がついて回るのだ。全体的に見れば悪い生まれではない。しかしたまに空を見上げては、こう思う。
――ああ、鳥のように自由に生きられたらなと。
「レオさんみたいに、鳥みたいに自由に生きられたらきっと素晴らしいですよね」
「おっ、妄想するのか? 妄想する事はいい事だぞ! さあその思考の翼をもっと広げるんだっ☆」
団子の串を口に咥え、両手を天高く突き上げて見せるレオ。こんな無邪気で突飛な言動をする少年が夜には冷酷な辻斬りになり果てるのだから世界は分からない。
しかし。レオは姿勢を正すと、咥えた串をもごもごと動かしながら志希を見た。
「志希はさ、自由になりたいのか?」
「え?」
突然真面目な声音で問われ、志希は目を丸く見開かせた。冗談かと思ったが、真っ直ぐ見てくるレオの瞳はどこまでも冷静で、まるで風が靡かない水面のようでもあって。
袴を掴み、俯きながら志希は小さく呟く。
「……どうなんでしょう。私の生い立ちを不自由だと嘆いたらそれはきっと反感を買います。裕福な家に生まれてる癖にって。けど時折、生きてて息苦しいと思うんです。望めばなんだって手に入るし出来るけど、制限ばかり掛けられた家……」
困ったように笑い、「自由ってなんなんですかね?」と続ける。
自分から見れば不自由に見えるソレも他人から見れば羨ましい事に映るかも知れない。『自由』の定義とは本当に難しい。
「お前がそう思うんなら、きっとお前は自由じゃないんだろうな」
咥えていた串を皿に置き、縁台に手を付いたレオは続ける。
「なら、自由になる為に頑張れば良いんじゃないか?」
「自由になる為の、努力……?」
「お前はおれと違ってきちんと学校に言ってるんだからさ~、勉強して何か夢とか探してみれば良いんじゃないか?」
「……もっと勉強して色々知れたら、自由が理解出来ますかね?」
「それはお前次第だけどな!」
「こ、此処に来て投げ出さないでください!」
折角いい事を言ったのに台無しだ。志希が呆れているとレオはやおら立ち上がり、縁台に団子と茶の料金を置いて後頭部で手を組んだ。慌てて志希も立ち上がり、懐から財布を取り出す。が、レオに手で制されてしまう。
「あ~、別に良いから。お前にはもっとすごい『お礼』をしてもらうしなっ☆」
「……自分で言っておいて何だけど、今更ちょっと不安になってきたなぁ……」
一体どんな恐ろしい事を頼まれるのだろうか。すごすごと懐に財布をしまいながら志希はひとりごちる。
と。唐突にレオが志希の腕を握って引っ張ってきた。突然の事で志希はたたらを踏む。
「レ、レオさん?」
「昨日は東の方を案内してもらったからな、今日は南の方を案内してもらうぞ~!」
「わっ! 急に走り出さないでください~!」
志希なんて気にしない素振りでレオは駆け出し、雑踏に紛れ込んでいく。
こうして、今日も平和で少しだけ賑やかな日が過ぎていくのだ。