漂泊者の濡れた足音

 夢ノ咲学院の近くには海があり、そこはサーファー達がこぞってやって来る取っておきのスポットらしい。いい波が来るぞと噂を聞きつけたのか、土日の休日になると海辺の道には見慣れないナンバーの車が停まっていたりする。この辺りでは最早見慣れた光景だ。
羽風薫もその中の一人であり、今日もこうしてサーフボードを抱えて海に繰り出しており。今日は風向きが良いのか波も乗りやすいものが多い。ボードに乗って水をかき、次の波を待ちながら羽風は思う。今日は絶好の日だな。
 それからも波に数度トライをし、波乗りを満喫したところで羽風は一度浜辺に上がってきた。冷えきった体を温める為の休憩だ。サーフボードを砂浜に突き立て、その隣に腰掛ける。太陽の熱と砂浜の熱でじんわりと体が温まっていく感じがする。今泳いでる他のサーファー達の様子をぼうっと眺めていたら直に体も温まりきるだろう。そう思って羽風がのんびりとしていると、視界に収まる範囲で不思議なものを見つけた。ん?と思い羽風は首を動かす。
 女の子だ。女の子が海から上がってきた。
 女性サーファーなら幾らでも見かける。が、水着の上に白いTシャツを着、サーフ板を持たずに海から上がってきたのは奇妙でもあった。そして何より――

ナマエちゃん?」

 そう、彼女は所属する科さえ違うが部活を共にする既知の存在であった。
 ミョウジナマエ、海洋生物部に所属する声楽科の少女。確か奏汰のお気に入りだったなと思い出しながら羽風はひらりと手を振る。濡れた髪を絞りながら砂浜を歩いていたナマエが羽風に気付き、意外そうに眉を跳ね上げた。

ナマエちゃんが居るなんて珍しいね~。ナマエちゃんもサーフィン?」

「サーフィンはしないです。泳いでました」

「えっ、泳いでただけ?」

「はい」

 ナマエが頷く。頭が揺れると同時に彼女の髪に含まれている海水もポタポタと雫を作って砂浜に黒点を生む。

「強いていうなら、海を見てました」

 さっぱりした物言いだが、決して羽風を嫌って冷たい態度を取っているのでは無い事を彼は知っている。深海に話しかけられようとも、神崎に質問されようとも彼女はこの具合で返しているのだ。その辺り、転校生の彼女よりは取っつきやすい、と感じている。
 取り敢えず隣に座ったら?と羽風が己の隣の砂浜を叩く。素直にナマエは頷き、少し間を空けてストンと羽風の隣に腰を降ろした。少し間を空けるのは彼女らしい。人と距離を置いてる彼女の心の在り方を表してるのか。

ナマエちゃん、魚とか海とか好きだもんね~。でも海って見てて楽しい? 俺と喋ってた方が楽しいと思うんだけどなぁ」

「羽風先輩とお話するのは興味深いですが」

 ナマエが頭を動かして海を見やる。浅瀬ではサーファー達が各々波に乗って楽しんでいるが、彼女の目はそれを捉えていないのだろう。彼女は、きっと海しか見ていない。

「海を見てると落ち着くので」

「俺と喋ってると落ち着かない?」

 クスリと笑って羽風は言う。我ながら意地悪な質問だったかも知れない。しかしナマエは特別困ったような顔もせずに続ける。

「海だから見てて落ち着くんです」

「そういうとこ、奏汰くんに似てるよね」

 海が好きというところは深海と同じ共通点である。彼は海に潜ることが出来なくて、代わりに校舎の噴水を利用してそこで水浴びしていると聞く。実際ナマエがアイドル科の建物に用事があって行く時、噴水のところで水浴びして怒られている深海を見かけたことがある。
 海に憧れるが泳げない深海と、海に憧れてふらりと泳ぎに来るナマエは、きっと根本的な部分で繋がっているのだろう。

「海が好きって、ナマエちゃんは人魚みたいだね」

「はあ」

 対するナマエの反応は鈍い。釣れないなぁ、と羽風は苦笑を零す。

「人魚は古来より不老不死の霊薬の材料として重宝されたそうですよ」

「俺が言いたかったのは童話の人魚なんだけどな~」

 アンデルセン童話の人魚姫。人間に恋をし、美しい声と引き換えに足を手に入れて陸へと足を踏み入れた悲劇の姫。最後は泡沫に消えてしまった可哀想な娘。
 海に恋をしているようにも見えるナマエは、形こそ違えどまるで陸に居る王子に恋焦がれる人魚姫のように羽風は思えた。ならば結末は。
 羽風は砂浜に置かれているナマエの手に己の手を重ねた。不思議そうにナマエが羽風の顔を見やる。

「羽風先輩?」

「もしナマエちゃんが人魚だったら、泡になる前に俺に恋をさせて人間のままで居させるんだけどね」

 俺だけのお姫様で居てね。なんて付け足すと。ナマエはおかしそうに肩を揺らして笑った。


2013/09/01