それでも物語はここから始まる

 窓に暗幕を貼り、照明の光量を絞って薄暗い講堂から雀の涙ほどの明かりを奪う。
 講堂の下手にある、緞帳どんちょうで区切られた舞台。静かな表舞台とは違い裏側ではわらわらと多数の男女が忙しそうに走り回り、或いは次に言う台詞の確認にと台本を読みながらブツブツと呟いていた。おどろおどろしい魔女の服を来た女子が「私の小道具どこ!?」と叫んでいる。ああ、ドタバタしてるなあと辟易しながらも志希は衣装のドレスを持ち上げ、人の邪魔にならない隅に移動して台詞をチェックしていく。

 今日は夢ノ咲学院演劇科の演劇がある。
 アイドル科の催しに合わせてこちらも何か出し、集客を狙うという目的がある。それは進路希望の可愛い後輩の道しるべになるだとか、何処かの劇団の人が来たら未来を売りに行くだとか。勿論ファン獲得もなによりの目的であるが。
 隅にしゃがみ込んだ志希は小さな声で台詞を読み上げていく。セリフとセリフの『間』はこれでいいのか。別の人に語りかけるシーンではこの声のトーンで手振りを添えれば綺麗に見えるだろうか。間違いそうなところ、不安なところ。しっかり復習していく。間違えたくないから。
 ――そう、間違えたくないから。
志希が握る台本が、グシャリと少し形を曲げる。

 何時だったか? と問われれば志希はすぐに答えることができる。小学校一年の時だ。
 演劇会なるものがあった。要するにお遊戯会の延長線上のモノだ。
 自分が何の役をやったかは忘れてしまった。だけど決定的な出来事は覚えている。いつまでも、今も。
 それはきっと、なんでもないミスだったのだろう。言うセリフを間違えた。ただそれだけ。だけど観客――同年代の子供達に揚げ足を取るように笑われてしまったのだ。笑い声が反響する体育館。頭が真っ白になって立ち尽くす志希。それからは……覚えていない。保健室で泣きじゃくっていた記憶があるからきっと先生が志希を連れてきて、劇もなんとかしたのだろう。
 それからだ。志希が舞台に立つのを怖がるようになったのは。最初こそ演劇すら避けていたけど演劇の魅力に抗えなくて、ゆっくりと時間を掛けて緞帳の裏までなら、端役程度ならと志希自身に克服させてきた。まあ、それでも未だ舞台に上がる直前に恥ずかしくなって脱兎のごとく逃げる時が多々あるのだが。
 台本読みに没頭していると誰かが上から覗き込んできた気配があった。台本に頭一つ分のより暗い影が落ちる。

「うっちゅ~☆ 志希、応援しに来たぞ~!」

「れ、レオくん!?」

 バッと顔を上げるとアイドル衣装を身に纏ったレオと目が会い、屈託ない笑顔を向けてピースしてきた。志希は慌ててレオを隠すように隣へ座らせる。幸いにも舞台が始まる前で役者は貴族のような服や魔女のような服を着て舞台裏でバタバタしているので、レオの衣装が目立つような事は無かった。
 ほぅ、と安堵の息を漏らす志希は隣で自分の台本を開いて読んでいるレオに向けて目を向ける。

「で、レオくんがなんで此処に……?」

「だから応援だって! 志希のやつ、まーた舞台に上がる前にあれこれ考えてダメダメになってるんじゃないかとか、怖いと思ってそうだなーとか思ってさぁ」

「うっ」

 まさしくその通りだ。図星。預言者なのだろうか、彼は。手持ち無沙汰になってしまって志希は膝の上で手を組むと手元に視線を落とす。

「……うん、凄く怖い。今すぐ走って逃げたい位」

「わはは☆ 志希はやっぱり面白いな!」

 レオはカラカラと笑う。しかし表情を引き締めると志希に向き直り、彼女の両手をしっかりと握る。志希が顔を上げてレオを見た。

「レオくん?」

「大丈夫だ。お前を笑うヤツなんて居ない」

 流石はアイドルと言うべきか、レオの声はよく通る。その声は、言葉は、乾いた砂地に落とした一滴の水のように志希の心に吸い込まれていく。
 ああ、やっぱり耳障りの良くて綺麗な声だと場違いな事を考えているとレオが僅かに笑む。

「だから、胸を張って堂々と舞台に行け。それでも演劇に疲れたら、嫌になったらおれの所に来て休んでいけば良いよ。鳥だって延々と飛んでるんじゃなくてたまに休むんだからさ。止まり木くらいにはなれるぞ、おれ」

 演劇を辞めろと言っているんじゃない。捨てろと言っているんじゃない。休んで、立ち止まっても大丈夫だと言うのだ。
 レオの手が伸びてきて、志希の頭をポンポンと叩く。そのままレオはぐしゃぐしゃと髪を混ぜて。

「な?」

 小首を傾げ、レオは笑う。溢れてきた涙を拭いながらも志希は口角を上げてみせる。

「ふふ。レオくん、魔法使いみたい」

「え~!? おれは王さまだってば! 騎士を率いて戦を仕掛ける勇敢な王さま! だから魔法使いって柄じゃない!」

「ふふっ。うん、でも私にとっては魔法使いでもあるよ、レオくんは」

 言葉がほしい、レオが傍に居てほしいと思う時に不思議な位タイミング良くやって来てくれたり、元気になれる魔法の言葉を贈ってくれる、勇ましい騎士でもありつつ優しい魔法使いの側面を持つ。それが志希にとっての『月永レオ』なのかも知れない。
 言葉の意味を理解しかねるのか、眉を寄せて唇を尖らせるレオに小さく笑うと、志希は頭上のレオの手を外して立ち上がった。

「それじゃ、行ってくるね」

 ひらりとレオは手を振る。

「おう、行ってらっしゃ~い☆」

 笑顔で見送られ、志希は台本を拾って戦場のように慌ただしい現場へと向かっていく。
 幕は、もうすぐ上がる。


2019/04/08