皐月の王よ、櫟の下に眠れ
「ああもう、最悪」
住宅街を歩いている綺麗な美貌を持つ少年の唇から、泥のような悪態が溢れ出る。
『Knights』の臨時リーダーである瀬名泉はその日も幾つかの書類をカバンに入れ、リーダーである月永レオの家へとむかっていた。
何も好きでリーダーの家に行くのではない。必要だから、必須だから向かうだけだった。
『臨時』のリーダーではドリフェスに参加する有無を問う書類に判子が押せない。そういう書類に目を通し、判を押す権限は月永レオが持っているからである。
――幾ら彼が『皇帝』に破れて砕け散ろうとも、引きこもり気味になろうとも。
「ほんと、最悪なんだけど」
イライラする気持ちをローファーに込めて道路を歩きながらもう一度悪態を吐く。あの阿呆、よりにもよって今日は外に出掛けてるなんて。
いつもの調子で月永家に行ったら「今、お兄ちゃん居ないんです」と彼の妹に申し訳なさそうに言われた時は怒りが頂点に達するのではと思ってしまった程だ。年端もいかない少女の手前、モデル業で培った笑顔と受け答えで何とか耐えたのだが。
タダでさえ此方の貴重な時間を潰して、わざわざ足を運んでいるのだ。機嫌が悪い所に追い討ちが掛かってくる。レオに会ったらビンタの一つでもしたい所だ。そうでもしないとスカッとしない。
歩きながら、瀬名は鞄からスマートフォンを出して操作をする。電話帳の画面を呼び出し、一人の名前を検索したところで一瞬、画面に触れてる指が止まる。
しかし躊躇は一瞬だけで。発信ボタンを押して耳に当てると無機質なコールが届く。数回鳴った後、少女の驚いたような声が瀬名の耳に飛んできた。
『は、はいっ!? もしもし!』
「ちょっと、出るの遅いんだけど」
『す、すみません、瀬名先輩……』
驚いた様子の声は段々と尻すぼみになっていく。
ミョウジ志希。演劇科に所属しているレオの幼馴染。しかし高圧的で後輩イビリが好きな瀬名と、人見知りが激しくて萎縮してしまう志希の相性は最悪だと言えよう。
『あ、あの……なんのご用事、ですか……?』
声だけでもおどおどとしている。本当に惨めな奴、と心の中で吐き捨てながらも瀬名は口を開く。
「あんたの所に王様行ってない? 俺、ドリフェスに必要な書類を渡さないといけないんだけどさぁ、あのバカ、どっか行ったって言うじゃん。ああもう、チョ~うざぁい!」
『レ、レオくんなら居ますけど……』
「んじゃ、あんたの家行くから出て待ってて。俺を待たせないでよねぇ」
一方的に捲し立てて切る。志希の家も、成り行きとはいえ瀬名は何度か向かった事がある。流石に家の前までだが。レオがレッスンをサボって志希の家に転がり込むような事態を起こさなければこんな事にはならなかったのだ。
苛苛が募るばかりで。だがそれを志希に対して鬱憤を晴らすような事をしたら目の前で泣かれるは自明の理だ。本当、面倒くさい。
そう考えている内に月永家から数件離れたミョウジ家が見えてきて。その下に目を向けると周りをきょろきょろと見回している人物が見えた。その人物は瀬名を視認すると駆けてくる。
「瀬名先輩っ、その……」
「はいこれ、書類ね。全部に判子が要るから王さまにきちんと全部押してもらうように言っといてよねぇ」
志希と合流した途端、瀬名は鞄から取り出した書類入りのファイルを突っぱねるようにして志希に渡す。よろけて数歩下がった志希が不思議そうに瀬名の顔を見た。
「その、先輩が渡しに行かないんですか? レオくん、きっと瀬名先輩とか鳴上くんとか朔間くんの顔見たら少しは元気に――」
「うっさいなぁ」
集った怒りが、ふつふつとマグマのように煮え滾る。
瀬名の剣呑な雰囲気と睨みに萎縮してしまったのか、志希は胸にファイルを抱いたまま硬直してしまっている。
「俺達が励ましたらあいつは元に戻るわけ? 俺達が慰めればあいつの傷が治るわけ? そんなんで戻るような『事』じゃないってのはあんたも理解してるよねぇ? それとも理解出来ない程頭悪いわけ?」
「あ、あの……」
ファイルを持つ志希の手が、力を込めすぎて真っ白に鬱血してしまっている。顔も血の気が引いたかのように真っ青だ。
「あんたの仕事は引きこもりの王さまが作った曲を俺達Knightsに渡す事と、Knightsの功績を王さまに伝える事。それ以上なんて無いし、俺達に何か命令する立場でも無いってこと、もう一度考えてみなよねぇ」
「……はい……」
力なく俯き、返事をした志希を見て「それじゃ」と瀬名はさっさと踵を返して帰路を辿り始める。顔を起こしてその背中を見送り、小さく志希は呟いた。
「それでも……レオくんの為になる事ならなんでもしたいんです」
悔しげに呟かれた言葉は、誰に聞かれることもなく静かな住宅街に溶けて行った。
◆◆◆
フローリングの廊下を小走りで走り、志希は瀬名から預かったファイルを大事そうに抱えながら自室へと向かう。部屋の前に辿り着くと志希は控えめに数度ノックをし、そろりと扉を開けて中を伺った。
「レオくん? 瀬名先輩が書類持ってきてくれたよ。判子、押してほしいって」
部屋は暗い。志希の部屋を訪ねてきた王さまは部屋の主が少し部屋を空けた間に勝手にカーテンを閉め切り、照明の一つも点けずに居たようだ。溜息を吐き、志希は扉近くの壁に指を伸ばして間探った。照明のスイッチに触れ、パチンと音と共に部屋が明るくなる。
「もう、レオくん。部屋が暗いと目が悪くなっちゃうよ~」
わざと語調を明るくして、笑いながら志希は部屋に入って扉を閉める。締め切られたカーテンを開け、ついでに窓も開けた。涼やかな風が入り込み、志希の髪を撫でていく。
「……ね? レオくん」
振り返り、そっと微笑みかける。しかしベッドを背もたれにし、ローテーブルの前に座っているその少年は何の反応も示さなかった。それが酷く辛く、その姿は見ていて痛々しい。涙が出そうになるのを堪え、志希はその少年の隣に静かに腰を下ろした。
予測不可能の王様。天才作曲家。強豪『Knights』のリーダー。
アイドルとして、作曲家としての名声も力も欲しいままにした王は今、その玉座を打ち壊され、努力も何もかも踏みにじられ、見るも無残な廃人と化していた。
守りたいモノは全てが蹂躙され、辛うじて残されたちっぽけな夢の欠片さえも壊されそうになった。そうして旧き因習と穢れと共に王を排斥した『皇帝』は笑ったのだ。
「楽しかったよ、また遊ぼう」と。
結果としてレオは人格を壊されてしまった。きらきらと輝いて、ひたすらに『アイドル』を目指す熱いアイドルは死んでしまった。
此処に居るのはその時に残された灰だ。残骸だ。あれほど好きだった作曲活動もせず、学校には行かず、ただ虚ろに、ぼうっと魂の抜けた人間のような日々を過ごしている。
少し気晴らしになれば、とまっさらな楽譜とペンを机の上に置いてもこうして無反応だし、差し入れのお菓子だって食べてない。
いや、食事すら最近はまともにしていない。レオは元々小柄な体つきだから、最近は更にやせ衰えて見るからに病人と間違えられてしまいそうな見た目になってしまっている。
「ねえ、レオくん」
床に力なく投げ出されているレオの手を両手で握る。女の自分よりもレオの指は細くて、力を込めるとぽっきりと折れてしまいそうだ。
もう限界だった。これ以上見ないふりなんて出来ない。何でもないふりなんて出来ない。そう思った途端、決壊したダムのようにとめどなく涙が溢れて来た。ぼたぼたと手に落ちる涙に、レオは少しだけ目を動かす。
「学校なんて行かなくていい、作曲もしなくていい! けどご飯は食べてよ! ほんと、このままだとレオくんが死んじゃう!! レオくんが死ぬなんて私、嫌だよう……っ!」
「……志希……」
それは懇願であり、悲痛な願いであった。
志希が抱えていた沢山の迷い、不安、そして―――死への不安。
「……志希」
掠れた声で、レオは泣きじゃくっている志希の名をそっと呼ぶ。掴まれていた手をそっと外し、自由になったその両腕を広げると、目の前で縮まって泣きじゃくる志希を抱き締めた。
「レオ、くん……?」
「なぁ、志希」
びっくりしたせいで涙が引っ込んでしまった。抱きすくめられたままレオの顔を見上げる志希。
レオはいつに無く――いや、舞台に上がる前の時のような真剣な表情で。それでいて、薄氷の上に立たされているような切迫さも感じさせられて。
「志希は……おれから、離れてかないよな……?」
掠れた声で縋るような言葉は、今までの堂々として熱い『月永レオ』の像とはかけ離れた言葉だった。それ程までに、彼は変わってしまった。壊されてしまった。
「……勿論だよ」
腕を伸ばし、レオの首に己の手を回す。少しだけ引っ張るとレオが猫背になり、志希が彼の頭を撫でやすくなる体勢になって。手入れを怠ってパサついてきた明るい橙の髪を、優しく梳くように志希はレオの頭を撫でる。
「私はね、レオくんが居るから舞台に立って演じられるの。レオくんが居なきゃ、私はなにも出来ない」
だから、と志希は続ける。
「レオくんから離れてくなんて、有り得ない話だよ」
えへへ、と照れ笑いをしながら志希は言う。それを聞いたレオはもう一度、志希を抱き締めた。
これだけは壊れて欲しくないと。
これだけは壊させてはいけないと。
檪の木の下で祈る、ドルイドの僧のように祈りながら。