クワドラングルに誘い水

 幼馴染の桐香は、基本的にはニコニコ笑って毎日を楽しく過ごす奴だった。会う度に昨日はあんな面白い事があった、こんな素敵な事があったと楽しげに話してくる。俺はそれを聞きながら裁縫をして、何気ない休みの日の午後を過ごす。暗黙のルールは俺が物心ついた頃から、中学に上がるまでもずっと続いていた。
 そんな桐香が一度だけ、俺の前で大泣きした事があった。確か小学校の卒業間近のだったか。火がついたみてぇにワンワン泣いて、どんなに慰めても泣き止まなくて妙に焦った覚えがある。
 当然聞いた。何で泣くんだよと。小学校も高学年になった俺は腕っ節の強さを覚えた頃だったもんで、いじめられてんなら言えよ、と言ったような気がする。
 しゃくりあげながら、桐香が言った。

『わたしね、歌舞伎役者になりたいのに、なれないの。女はなれないって、皆が言うの』

 桐香の家は伝統ある歌舞伎一家だった。それこそ小さい頃から劇を何度も見に行き、俺まで連れてかれる時だってあった。そして桐香も、時折子役として舞台の上に上がっていた。
 舞台の上で朗々と台詞を読み上げる桐香の姿は輝いている、と思った。しかし『将来はなりたいものになりましょう』と授業で言われ、悩んだ桐香は意気揚々と歌舞伎役者になります!と応えたところ、クラス中に笑われたらしいのだった。
 「馬鹿じゃねえの」
 「歌舞伎は男しかできないんだぜ」
 ケラケラと笑っているクラスメートの野次に涙目になりながらも桐香はその日家に帰って、話の真偽を親にきいて確かめたみたいだった。本当に、自分は歌舞伎役者になれないのかと。
 中学を上がるまでは子役としてなら舞台に立っていた例は幾つかあるらしい。けれど子役をしていた歌舞伎志望の女の子は、皆女優業や日本舞踊の道を歩みはじめる。
 俺達はもうじき中学生だ。だから、桐香はもう歌舞伎の舞台に立てなくなる。次の道を選ばなくちゃならない。

『歌舞伎以外の道に進めば良いんじゃねぇか? 踊りとか、あるだろ』

『そんなのないもん! わたしはっ、歌舞伎が良いの!』

 大泣きしながら文句を言い、俺は困って頭を掻いた。
 意固地になった時の女子ってのは、どうしてこうも面倒な生き物になるんだろう。
 とりあえず慰めて、適当な所で家に返そう――そう思った時、ふと一つの案が俺に降ってきた。大泣きしている桐香の正面まで向かい、頭を撫でてやりながら言う。

『じゃあよ、桐香。お前がもしこれから先で夢を見つけられねぇってんなら――』

 見つけられねぇなら、何と言ったか。


◆◆◆

「鉄、居るか」

 ガラリと道場の引き扉を開け、紅郎は道場の中をぐるりと見回した。しかし何処にも後輩の姿は無く。もうすぐ部活の時間だ、あの鉄虎が部活をサボるなんて事はないだろう。恐らくクラスの仕事か、流星隊としての用事でもあるのだろう。
 まあ、まだ部活まで時間はあるのだ。着替えて準備でもしていれば何れ来るだろう。その前に、と紅郎は道場の中心を見やった。
 道場の中心に人がうつぶせで倒れている。傍から見ればちょっとした殺人現場か、行き倒れに見えなくもない。しかし紅郎は別段慌てる事も青ざめる事もなく、ゆっくりとその倒れた人物に歩み寄るとしゃがみ、肩を掴むと揺り動かす。

「おい桐香、こんなとこで寝てると風邪引くぞ」

 ううん、と揺り動かされた桐香が不満そうに唸り、盛大に顔を顰めた。体全体で『起きたくない』を示している。
 そもそも、男しか来ない道場のど真ん中で寝るというのはどういう事か。普通に考えて大問題だろう。呆れながら紅郎が少し強めに揺すると流石に観念したのか、のそのそとまるで冬眠明けのクマの如き緩慢さで桐香は身を起こした。大きく伸びをして、ついでに欠伸もする。

「うう……おはよぉ、紅郎くん……」

「お早う、じゃねえよ。もう何度も言ってるだろうが、道場で寝るなってよ。なぁ?」

「うーん……? 言われたような、そうでないような……」

 目を擦りながら桐香は寝ぼけた声で答える。十中八九、話は適当に流しているのだろう。
 起こされた桐香はまだ眠そうで。声も顔もシャッキリしていない。普段はこんな調子でも、一度三味線を持って舞台に上がれば音楽科を筆頭するアーティストなのだから詐欺行為にも等しい化け具合だ。

「……なあ、桐香

「ん? なぁに、紅郎くん?」

 紅郎が桐香の隣に腰を下ろす。体育座りをして膝を抱えた桐香は小首を傾げた。

「前に話した事、覚えてるか? お前が歌舞伎の道を歩めなくなる事を知って、大泣きした時の」

「大泣っ……!? そんなに泣いてな、かっ、……たんじゃない?」

 自分の記憶の中では確かに彼の前で泣いた事があるが、そんなに言う程では無かった筈だ、多分。恐らく。
 恥ずかしいのか、桐香は身を更に縮こませると、足の指先でパタパタと畳を叩き始めた。照れ隠しなのだろうか。

「……それで、あれでしょ。歌舞伎以外の道が見当たらなかったら、その時は――」

 その時は、そう。

「紅郎くんが私を貰ってくれるって」
「俺がお前を貰ってやるって」

 異口同音で揃えられた言葉。二人は顔を見合わせてじっと見つめ合うと、その数秒後にぶはっと吹き出して笑い始めた。桐香は腹を抱え、畳の上に倒れてゲラゲラと笑っている。紅郎の方も腹を抱えて呵呵大笑していた。
 先に復活出来たのは桐香の方だった。

「あはっ……あーっ、おっかしーの! 二人してすんごい前の約束を一字一句間違えずに覚えてたなんて!」

 余程ツボに入ったのか、ヒイヒイと情けない声を出しながらもなんとか起き上がって座る。畳に手を付き、未だ肩を震わせながらも息を整え始めた。

「そうだな。……それで、道は決まったのか?」

「んー……」

 空中に目をさ迷わせ、言葉を選んでいる様子の桐香

「今は三味線を極めたいって事かなぁ。『コレ』があったから紅郎くんの居る紅月のレコーディングのお手伝いも出来たし。でもまだ、将来の事はなぁ」

 桐香も紅郎も、もう高校三年生だ。まだ猶予期間があるとは言え、何れはどう進むのかの面談だのなんだのが始まるのだろう。
 夢ノ咲は芸能人を排出する学院だ。どう進むにしてもそこの界隈に関する職業になるだろう。しかし桐香の中にそこまで明確な将来のビジョンがあるかと問われれば、それは否だった。
 『なんとなく』で進めばきっと、何処かのレコード会社に就職してずっと音楽の道を進むのだろう。意味も無く。意義も無く。虚ろのような毎日を送るのかもしれない。
それは嫌だ、と桐香は思う。しかし自分がそれこそ命を賭してでもしたい事は女では通れぬ道であり。
 うむむ、と桐香が腕を組んでしかめっ面をする。

「ない……って言われると、ないかも……」

「だったら、」

 紅郎に肩を掴まれ、ぐいと引き寄せられた。本人曰く『怖い』顔がぐっと近くになる。もう少し眉間の皺を減らしたら良いのにねと助言してみたのは何時の事だったか。

「俺が貰ってやるよ、お前を」

 低く呟かれたその声はどんな高価な甘味よりも甘く、どんな刺激物よりも劇薬だった。
 いつも側に居て成長を見ていたのに、どうやらこの鬼龍紅郎という男はいつの間にか少年の階段を登りきってしまっていたらしい。桐香の知る鬼龍紅郎は、既に大人の階段に足を踏みかけていたのだ。

「っ、くろう、くん」

 脳がビリビリと痺れて、心臓がバクバクと早鐘を打って何も考えられなくなってしまう。頭の中が真っ白だ。

 でも、とショート寸前の頭をなんとか動かして考えてみる。
 あれは只の口約束ではなかったのか。それも泣いてる子供を泣き止ます為だけの、その場限り有効のような。
だと思って、桐香は気にも止めずに居た。何となくそんな話をしたなぁ、子供だったなぁ、と。アルバムを開いて思い出に花咲かす程度のモノとしか受け取っていなかった。
 しかし紅郎は? そうではなかったのか? だってこれは冗談の延長だ。泣いている子を泣き止ます為の他愛のない嘘だ。なのに今の紅郎の表情が、声が、それを全て否定する。
 紅郎のシャツを掴み、桐香は彼の顔を見上げる。

「……ほんとに?」

 頭がクラクラする。きっと今の自分は頬も耳も真っ赤だろうなと桐香が思っていると、クツクツと紅郎が喉で笑った。
 ああ、やっぱり嘘だったんだと一息ついたのは一瞬で。

「悪ぃが、俺は冗談が苦手なんだよ」

 獰猛な虎に首を噛まれた気分だった。
 だけど、それは嫌ではない。強いていえばもう少しシチュエーションのある場所なら良かったか。
 俯いた桐香はぼすん、と紅郎の胸板の頭を預け、ぼそぼそと呟く。

「えっと……その、不束者ですが、よろしくお願いします……」

「おう、頑張れよ」

 つむじの見えるその頭を、笑いながらポンと紅郎は撫でた。
 将来はまだまだ未確定で、進路希望用紙は真っ白なまま突き返すかも知れないけど、
 花嫁修業だけはやらなきゃなあと思いながら、紅郎が頭を撫でてるのを受け入れているのであった。


2017/04/08