瞼の下の翡翠
「ヴィク? ヴィクー、居ないのかしら」
コンコンと資料室の扉をノックし、マリーは扉を開けて顔を覗かせる。中を伺った資料室は薄暗く、差し込む月明かりと外の照明の光だけが室内を照らしている。本当にここにヴィクターが居るのだろうかと、マリーは訝しむように眉根を寄せた。
マリーはエリオスの薬学部門で働く研究者だ。それと同時にヴィクターの婚約者でもある。
新薬の開発でヴィクターの意見を聞きたく思って姿を探したのだがどこにも見えず、ジャックに聞いてみたところ資料室へ行くと伝えていたらしく、こうして資料室まで来たのだが……どう見ても人の居る気配がしない。別の場所に行ってしまったのだろうか。
「ヴィク~……?」
声に覇気が無い。
元々、マリーは夜間の人気の失せた廊下だとか、人の居ない真っ暗な部屋が得意ではない。理由は至って簡単、幽霊が怖いからだ。人が聞けば研究者のくせに幽霊など非科学的な存在を信じるのかと言われる。実際ヴィクターには言われた。
しかし、怖いものは怖いのだ。薄闇が足のないヒトガタを取るかも知れない、角を曲がった先に血みどろの女が立っているかも知れない、そう思うと怖気が走って仕方ないのだ。
だから今こうしている時も変な物音がしませんようにとか、窓の外に変なものが見えませんようにと祈っている。ヴィクターが居ないのなら早々に立ち去りたい。
「い、居ないわよ……ね?」
念の為もう一度声を掛ける。耳を澄ませて少し待ってみるが、ヴィクターからの返事はない。入れ違いになってしまったのだろうか。それはそれで困るが、ここから早く立ち去れるならなんでもいい。逸る気持ちを抑えながらマリーは扉を閉めようとし──その瞬間、資料室の奥の方から物音が聞こえた。ガタンと、硬いものに何かがぶつかる音だ。
「きゃっ……!?」
思わず扉から手を離してしまう。胸の前でキツく両手を握りしめ、マリーは見えない力で頭を固定されたかのように資料室の奥を見つめた。体が強張り、まるで金縛りにあったかのように体が動かない。
バクバクと心臓が早鐘を打つ音が鼓膜を叩く。口内がカラカラになり、ゴクリとマリーは唾を飲み込んだ。
──何かが、いる。
マリーが硬直していると、再び資料室の奥から物音がして。ひ、とか細い声が漏れる。
幽霊にロザリオは効くのだっけか、でも今日は持って来ていない。ジャパニーズは塩をぶつけるんだったかと必死に考えていると──ややあって、誰何する声が聞こえてきた。
「その声は……マリーですか……」
「ヴィ、ヴィ、ヴィク!?」
体の強張りは解けたが、今度は力が抜けそうになった。
自身の名を呼ぶ声は間違いなく婚約者・ヴィクターのもので。どうして今まで名を呼んでも返事がなかったのかとか、薄暗い資料室で何をしていたのだとか疑問が次々と湧き上がってくるが、ひとまずマリーは資料室に入って明かりのスイッチを探した。誰か人が居ると確実に分かっているのなら怖くはない。パチンとスイッチを押して資料室に明かりを灯したマリーは奥へと向かう。ぎっしりとファイルや本が詰められた重厚な棚の合間を縫って進んでいけば、どうやらヴィクターは最奥に居るらしく。
最後の棚を過ぎ、声を掛けようとして、マリーは目を見開かせた。
「ヴィク!?」
床に積まれた本の山にもたれ掛かるようにして、ヴィクターが床に座っている。いや、ずり落ちた白衣や目の下のクマを見る限り、ここで寝ていたところをマリーの声に反応して起きた、と言った方が正しいか。
頭を押さえ、申し訳無さそうにヴィクターが笑う。
「お恥ずかしながら、資料を閲覧している最中に眠ってしまったようでして……。行き倒れるだなんてノヴァのようですね」
「もう、ヴィクってば……!! あれほど食事と睡眠は欠かしたら駄目って言ってるのに!!」
慌てて駆け寄り、ヴィクターの傍らで膝をついたマリーは両手でヴィクターの顔を包み込むと顔色を確認する。彼が研究を優先するあまりに睡眠時間も食事も削っていることは知っているが、このように行き倒れるなんて初めてだ。相当無理をしていたに違いない。覗き込んだ顔は、月明かりが差し込んでいることを加味しても十分青かった。
ヴィクターの顔から手を離したマリーは己の白衣を脱ぎ、ヴィクターに被せる。意図が分からないと言いたげな彼の隣に座ると、ぐいと引っ張ってヴィクターの頭を己の太ももの上に乗せた。
困惑した翡翠の瞳が見上げてくる。
「ええと、マリー……これは一体……?」
「本当は仮眠室に連れていきたいのだけど、私は貴方を背負えないもの。だからせめて、ここで少し休憩を取って頂戴? 疲れた体と頭じゃ、研究だって身に入らないわよ」
諭すようにマリーは言い、ポンポンと優しくヴィクターの頭を数度叩く。
膝枕と言えば恋人らしいが、どちらかというとこれは「言うことを聞かない子供を諭す親か姉」だ。大丈夫だ……と言いかけて、瞼を押さえつけられたかのような強烈な睡魔がヴィクターを襲う。うと、と瞼を閉じかければマリーが微笑んだ気配がして。
「おやすみなさい、ヴィク」
「……では、少し、だけ……」
翡翠が閉じられる。全く、困った人だ。
小さく笑い、マリーはヴィクターの体が冷えないように被せた白衣を掛け直した。