ヨータ運河のロゼアンナ
「それでは、次のブースへご案内しましょう」
穏やかなバリトンボイスがエリオスミュージアムの一角で響き渡る。にこやかなヴィクターの案内に従って女性客たちが示されたブースへぞろぞろと移動していくのを確認しながら、さて次の説明は……と脳内でシミュレートする。確か次は街の成り立ちと、それに密接に関わってきたサブスタンスについてだったか。
『セクターランク』が降下したことによって起きた観光客の減少。それは『ヒーロー』の責任だと取られる部分が多く、区長と観光協会から観光業活性化の依頼が打診された。そのための『ヒーローと一緒に観光出来るツアー』だ。
『ヒーロー』らしい活動に励んでいると言えばそうだが、ヴィクター・ヴァレンタインという男を知っている者なら、こうして精力的に案内をしている様子は些か不思議に思うだろう。こういうことには無関心そうなのにと、他の者に任せて自分は最低限のことしかしなさそうにと。事実マリオンには不気味がられていた。
しかしこれは今回ターゲットの層……サブスタンスに馴染みの無い観光客や女性客にサブスタンスの有能さや素晴らしさを説く絶好のチャンスなのだ。張り切らない筈がなく、こうして生き生きとヴィクターはエリオスミュージアムの案内人を務めている次第で。
移動する最中、ふと見慣れた後ろ姿が視界に映ったような気がした。しかしその人が此処に来る理由が見当たらず、似たような人を目に止めたのだろうと思ってヴィクターも次のブースへ移動していく。
マリオンの推すカフェで小休憩をし、次はゴンドラでヴェネチアのような水都になったブルーノースをゆっくりと回っていく。ゴンドラに乗る際に一人ひとり手を取って案内をし、最後の女性客がヴィクターの前へやってくる。その女性客の姿を認め、ヴィクターは呆れたように息を吐いた。
「マリー……何をしているのですか」
「あら」
バレちゃったわとイタズラがバレた子供のように笑うのは、ヴィクターの婚約者であるマリーその人だった。
そも、マリーはブルーノース在住だ。わざわざツアーに参加しなくとも観光名所は知ってるだろうし、エリオスミュージアムなど逆に彼女が案内出来るほどには知識を持っている筈だ。だから此処に居る理由が分からず、ヴィクターは眉根を寄せる。
ひとまずマリーの手を取ってゴンドラに乗せ、空いているスペースへと座らせてから自分も乗船する。ここからはガストとレンの案内だ。マリー以外の女性客は皆彼らに視線を向けていて、誰もヴィクターとマリーに意識を向けていない。コソリと内緒話するには絶好のチャンスだった。
「だって、ヴィクが素敵な衣装を着て観光名所を一緒に回ってくれるんでしょう? そんな素敵なこと、私だって体験したいもの」
「観光名所もエリオスミュージアムの案内も、休日に幾らでも案内して差し上げられるでしょう」
「もうっ! それはそれで楽しいし素敵だけど、私は仕事中の格好良いヴィクに案内してもらいたいのよ」
ぷくっと頬を膨らませる。
仕事中の格好良い姿とは言うが、研究内容によってはマリーの意見を聞くために一日ずっとヴィクターのラボで意見を交わしていたり共に作業をしていたりするのだ。その時に幾らでも自分の姿なんて見れるのでは……と言ったところでマリーはそうじゃないと言うのだろう。堂々巡りの応酬になると踏んで口を噤んでいれば、船の縁から手を伸ばしたマリーがチャプンと水面に触れる。
「研究部からの報告で聞いてはいたけれど、本当に凄い水の量ね~。大きさは手のひらほどだったかしら? 水も……触った感じでは普通の水みたいね」
「大きさは直径二十センチ程。発現した水の成分は一般的にニューミリオンで使用される水道水と差異はありませんでした。詳細なデータを送りましょうか?」
「それが聞けただけで良いわ」
水面から手を離し、大人しく席に座り直す。
そう言えば、とマリーは思い出したかのように切り出した。
「旧ラボ……今はエリオスミュージアムに改装されたけど、懐かしいわね。私とヴィクが初めて会ったのも旧ラボだったわね」
「その後、家同士で婚約の話が上がったのでしたか」
「そうそう。前々から話は上がってたらしいけど、まさかちゃんとした場で会う前にラボで会うなんてね」
遠い日のことを思い出す。
あの時まだマリーは薬学科に籍を置く学生で、ヴィクターは入所したばかりのルーキーだった。卒業したら入所することになるHERIOSの研究部に研修生として出入りしていた時、ヴィクターに会ったのだ。
サブスタンスの研究一辺倒で人付き合いを不得意とするヴィクターを余人は『変人』『マッドサイエンティスト』と呼ぶが、マリーはそうとは思わなかった。仕事に打ち込むことは素敵なことだ。熱中出来るものがあるというのは素晴らしい。
そして何より――サブスタンスについて語る彼の表情がそれまで見たことが無いほど楽しげに、生き生きとしていたから。
その横顔に惚れてしまったと言っても過言ではない。もっと彼の話を聞いていたいと、もっと知りたいと思ってしまったのだ。
対するヴィクターも少なからず当時のマリーを心に留めていた。
まだ少女とも呼べる子が聡明な光を瞳に宿し、ヴィクターの投げた難しい質問にもスラスラと答えたのだ。サブスタンスを交えた話もしっかりと自分の考えを交えて意見を述べる。
サブスタンスはまだ謎の多い分野だし、積極的に学ぼうとする人も多くはない。故にこうも学ぼうと意欲的だったマリーはとにかく印象的だった。
――それがまさか、縁が巡り巡って婚約関係になるとは。
人に好かれるような性格だとは思っていない。だから次第に飽きて離れていくだろう……と思っていた。しかし一年、二年と経ち、気付けば十年以上一緒に居て。
相変わらず『感情』というものは分からない。他人が笑っているときに笑えないし、人が亡くなっても涙なんて一滴も溢れてこない。
――しかし、
「次のデートはまたエリオスミュージアムに行きましょうか」
「本当? 楽しみだわ!」
ニコニコと笑うマリーを見て胸の辺りに温かさを覚えながら、ソレがなんなのかはまだ分からないのだった。
分かるのは、彼女の隣という場所が存外心地よいということで。