Beyond You

 屋上に繋がる扉を開ければ、春先にしてはまだ肌寒い風が入り込んできてマリーは身震いをする。持参した水筒の中身を温かい紅茶にして正解だったなと思った。
 ヴィクターが《禁忌の実験》に手を出していたことが露見し、ヒーローとしての活動とオーバーブロウの特効薬以外の研究活動を禁じられてから暫くが経つ。そしてその特効薬が完成されてからと言うもの、ヴィクターはまるで炎のように燃えていた研究意欲が消え失せ、茫然自失とした日々を送っていた。
 無意味に日々を消化するだけの毎日。特段やることが無いのでタワーの屋上に向かいベンチに腰掛け、眠気が訪れるまで日がな一日景色を眺めていると言われた時はあまりの痛々しさに眉を寄せてしまったが。
 今日も今日とてそうしているのかと思って研究の合間に来てみれば――案の定。

「ヴィク」

 優しく呼びかけながら後ろ姿の見えるベンチまで向かえば、景色を見ていたらしいヴィクターがゆっくりと振り返った。やはりその顔は何処か生気が無く、顔立ちの良さもあってまるで精工な人形のように見えてしまう。

「隣、失礼するわね。ああそれと温かい紅茶を持ってきたの。幾ら上着を着て来ているとは言え冷えるかなと思って」

「有難う御座います」

 水筒のコップに注がれた紅茶を受け取り、口に付ける。それを半分ほど飲み終えたところでヴィクターはゆっくりと口を開いた。

「貴方には随分と迷惑を掛けてしまっていますね」

「迷惑だなんて思ってないわ。ただ……少し驚いちゃったわね」

 マリーは眉を下げて笑う。そうして手持ち無沙汰そうに手を膝の上に乗せ、指を組む。
 薬学にも関係してくる事象だったから当然マリーに振り分けられる仕事も舞い込んできた。それのことを指しているのなら謝罪や弁明の類は不必要だと思っていた。別に仕事の一つや二つ増えたところで変わりはないのだから。
 しかし――非人道的な実験をしていたこと、ルーキーであるグレイやレン、面識のあるマリオンを巻き込んだことに関しては頷けなかった。
 オズワルドの理念を掲げ、悲願を達成しなければならないというのは知っていた。そうした一つの物事に打ち込むヴィクターの姿が好きだったから。サブスタンスに目を輝かせる横顔に恋をしてしまったから。
 だからこそ、複雑な気持ちを抱いてしまう。その罪を許してしまって良いのか、気付かなかった己を罰すればいいのか。分からないのだ。

「貴方が私に幻滅したと言うのなら、婚約解消も受け入れましょう。私はそれほどのことをしたのですから」

「ちょっ……ちょっと待って、ヴィク」

 慌ててヴィクターに向き直る。覗き込んだ顔は「何をそんなに慌てているのか」と不思議そうにしていて。
 落ち着け、と己に言い聞かせて一度深呼吸をし、マリーはヴィクターの手に触れる。

「話が飛躍しすぎているわ。少しだけ驚いたのは本当だけど……だからと言って婚約解消する気は無いわよ。私が貴方のこと嫌いになったと思った?」

「貴方を失望させるには十分過ぎる程のことを私はしました」

「ヴィク」

 穏やかな性格のマリーにしては珍しく有無を言わせない口調で名を呼び、それより先の言葉を紡ぐことを許さなかった。
 じ、と目を合わせる。青い瞳は冷徹な彼に似つかわしくなく、迷子になった子供のように不安で揺れていた。
 いや、実際そうなのかも知れない。『悲願達成』という大きな目標――道標を失った今、ヴィクターはどう歩いていけば良いか分からないのだろう。とんだ大きな迷子だ。
 ヴィクターの手を強く握る。長い間寒空に居たからか元来の体温の低さのせいか、握った手は随分とひんやりとしている。

「今の貴方、迷子の子供みたいよ」

「迷子、ですか?」

「道を失って途方に暮れてる、大きな迷子。そんな状況で貴方の手を離すなんてこと、あるわけないじゃない」

 だってそれが、婚約者として隣に立つ者の務めだろう。
 導くことが出来ないとしても、道を照らすことが出来ないとしても。その隣に寄り添って暖かさを分け与えることは出来るのだから。

「私とヴィクでは研究分野が違うから役に立たない時だってあると思うけど、それでもこういう時に側に居る位は出来るわ。困った時や不安な時、分からない事がある時って誰かが居てくれるだけで安心するもの」

「……そういうものでしょうか」

「そういうものよ」

 いまいちピンと来てない様子にマリーは小さく笑う。
 その感覚はヴィクターにはあまり馴染みのないものだった。ヴィクターの周りにはいつもノヴァやマリオン、マリーが居て、虚しさを感じる時というのがなかったから。研究で行き詰まった時はノヴァやマリーと話せば思考が明瞭になり、難題が開ける時があった。
 だから分からない。しかしマリーがこうして手を握ってくれて側に居ると言ってくれた時――仄かに胸の内に火が灯った気がした。
 小さな灯火。それが道を照らすことはないが、冷たくなった指の先を温めるには十分だ。

「……貴方がそう言うのであれば、そうなのかも知れませんね」

 マリーの肩に頭を預ける。可笑しそうにクスクスと笑う声が降ってくるのを聞きながら、ヴィクターは静かに目を閉じた。
 ――もしかしたら、これが「安らぎを得る」ということなのだろう。


◆◆◆

 それから数日経ったある日、ヴィクターはマリーのラボを訪れていた。ヴィクターが持参した菓子を手渡せば嬉しそうに笑みを綻ばせながら「お茶とエスプレッソを淹れて来るわね」と併設されている簡易キッチンへと向かっていった。
 ソファに腰掛けて待っていれば、程なくしてカップ二つと皿に移した菓子を載せたトレーを持ってマリーが戻ってきた。机にそれらを置き、ヴィクターと対面するようにマリーも椅子に腰掛ける。

「まずは……復帰おめでとうと言うべきかしら。本当に良かったわ」

「その節は大変迷惑をお掛けしました。申し訳ありません」

「謝らないで。言ったでしょう? 私は貴方の手を握っていただけ。特別なことはしていないわ」

 紅茶を口に運び、マリーは笑う。
 そう、別に大したことはしていない。条件付きと言えどヒーローとして復帰出来たのも、薬が『オーバーブロウ』の特効薬として認可されて任意の接種が可能となったのも。それはヴィクターの努力の賜物だろうし、何よりジェイが上層部と掛け合ってくれたお陰だろう。彼の言葉がなかったらヒーロー復職はなかったかも知れない。

「いえ、それでも貴方に謝罪をしたいのです。迷惑を掛けただけではなく、私は今まで貴方に不誠実な態度を取っていました」

「あら、ヴィクはいつだって真摯に向き合ってくれてたでしょう?」

 からかうようにマリーは笑うが、それは心の底からの本心だった。

 家同士が決めた婚約。研究一辺倒なヴィクターからしてみれば己を縛る鎖が一本増えたようなものではと考えたことがあった。外に連れ出す時間や食事を共にする時間でどれだけ研究が進めるのだろう、表には出さないが煩わしいと思ってるのかも知れないと。
 それでも、ヴィクターは真摯に婚約者として振る舞ってくれた。それの何処が不誠実だと言うのだろうか。
 ヴィクターが緩く首を横に振る。

「私は、私が冷酷な人間だと決めつけていました。そうして本心から目を背け続けていたのです」

 しかし、とヴィクターが前置きをする。

「今回の出来事を通して、もう少し心のままに生きてみようと思いまして。貴方とも向き合おうと決めたのです」

 ヴィクターが穏やかに笑う。その笑顔は社交性を演じるためのものではなく、心の内から零れ出たかのような自然な笑みだった。その笑みを真正面から受けて、マリーは己の頬に熱が集まっていくのを感じる。

「え、えと、ヴィク?」

「貴方のこと愛していますよ、マリー

「え、えぇ!?」

 思わず素っ頓狂な声が出てしまう。火照る頬を隠すようにマリーは両手で頬を包み隠した。
 だって、真正面からヴィクターに愛の言葉を囁かれたのなんて初めてだ。好意的な言葉を投げかけられるのならまだしも、こんな言葉は耐性が無い。
 ごほん、とわざとらしく一つ咳払いをしたマリーは姿勢を正し、花が綻ぶように笑った。

「……私も。ヴィクのこと愛してるわ」


2023/03/16