雨下がりの群青
ざあざあと雨が降りしきる音で意識が浮上する。まだ重たい瞼を何とか持ち上げれば室内はいつの間にか真っ暗であり、遠くで煌々と光を照らしている外灯の光が幾ばくか刹那の自室に差し込んでいるくらいだった。
直感で理解する。――寝すぎた、完全に。
たまの休日だからと、疎かにしがちな部屋の掃除をしたり武器のメンテナンスを普段以上に念入りにしてみた。そこまでは良い。少し休憩するかとベッドに寝転んだのがいけなかった。少し瞼を閉じるだけだから……と居もしない誰かに言い訳をして微睡んだが最後、こうして健やかに眠る羽目になるのは火を見るよりも明らかだろうに。人は何故うたた寝の欲求に抗えないのか。
刹那は寝返りを打ち、サイドテーブルに目を向ける。上に置いてある時計は午後十時過ぎを指しており、随分と寝てしまったなと思う。確かベッドに寝転んだのは午後四時くらいだっただろうから。
「……てか、晩飯……」
暗い自室を漠然と見つめながら、寝起きの掠れた声で紡いでみる。
少し休憩してから何処かへ食べに行こうと思っていたから、何の用意もしていない。何も無ければ最悪非常食を齧れば良いのだが、よりによってその非常食もこの間アンダーグラウンドに潜った際に全て持ち出してしまっていて、貯蔵庫には干し肉の欠片一つだってない。空腹を寝て誤魔化そうにも今しがたたっぷりと寝たばかりであり、重たかった瞼もそろそろ元気に上がりつつある気配を感じる。加えて、外は見なくても分かる程に大雨。嫌になってきてしまう。
ごろりともう一度寝返りを打ち、天井の木目を意味もなく見つめながらどうしようかと思案する。濡れたくない。動きたくない。でもお腹は空いた。もう遅いし。
「うーん……」
うつ伏せになり、バタバタと足をバタつかせる。最後に気合いを入れて腕に力を込め、ベッドから上体を引き剥がした刹那はベッドから降りると軽く身支度を整え、念の為ベルトを巻いて剣を提げ、外套を羽織ると立て掛けていた傘を手に取って玄関を開けた。後ろ手に扉を閉めながら反対の手で傘のボタンを押して、開きかけの傘の下に素早く身を滑り込ませる。一瞬雨に打たれただけなのにそこそこ肩や背が濡れてしまい、辟易してしまう。
時間は遅いが、まだ開けている飲食店はあるだろう。少し傾けた傘から空を覗き見、さっさと食べ物を買って帰ろうと刹那は心に決めた。
雨が降りしきるエルデンの街を歩く。
流石に時間帯と天候も相まって出歩いている人は居らず、日中なら色々な意味で賑やかな通りも静まり返っている。それに――今は《SmC》が幅を利かせている時期だ。少しでも奴らと関わり合いを持たないようにと早々に家に閉じ籠もり、念入りに鍵を掛けているのだ。こんな時間に一人で出歩いているのなんて物好きな奴か、刹那のような間抜けくらいだろう。
水たまりを踏み抜く。
暫く進んだところで暗闇の中で一際黒いものが道の真ん中に立っているのを目にし、刹那は一度足を止めた。輪郭を掴むようにじっと目を凝らす。……人だ、人が此方に背中を向けて立っている。
どうやら暗闇の中でも黒いと感じたのは、そいつが黒衣に身を包んでいるからのようだった。傘も差さずにいるせいで濡れたその黒髪は艶を得て濡羽色のように映る。
全身ずぶ濡れになりながらも立ち尽くしているそいつの名を、刹那は知っている。姿を認めたままに名を呼ぼうとして――躊躇われるかのように刹那は唇を引き結んだ。
そいつの名を知っている。けれど友人かと問われればそうではないし、知り合いでもない。勝手に刹那に付き纏い、異常な程の愛を勝手に向けてくる迷惑な男、ただそれだけだ。
それに知っている。あいつが現在、このエルデンで最も悪名高い《SmC》と協定を結び、頭領である《SIX》に手を貸していることを。
傘を僅かに下げ、視界からそいつを消してしまう。そうだ、これできっと良い。
素通りしてしまえ。何も見なかったように。そうすれば心許ない細い糸で結ばれたかのような縁はきっと切れて無くなってしまうのだから。断ち切ってしまえ。碌なことにならないのだから。
だけど、
「……アジアン」
名を、呼んでしまった。届かなければいいのにと思った。パラパラザアザアと音を鳴らす雨に紛れて。
アジアンがピクリと僅かに肩を揺らす。ああ、もう取り返しは付かない。
ゆっくりとアジアンが肩越しに振り返る。随分とぎこちない仕草だ。表情の抜け落ちた顔はいつものアジアンらしくないが、これがあいつの素なのかも知れない。それは正に冷静冷徹な《虐殺人形だ》。
「……やあ、キミか」
いつもの鬱陶しいまでの溌剌さはなく、僅かながら口元に笑みを描いてみせただけのアジアンに刹那はギュッと苛立たしげに唇を噛んだ。何なんだ、その雰囲気は。まるで少しでも突っついたら折れて壊れそうではないか。
刹那は僅かに口を開き、声を振り絞る。
「何、してんの」
それは今のアジアンに対してか、あいつの行いについてか。
雨よりも濃い青い瞳が僅かに緩められる。
「何もしていないサ。キミこそ、こんな時間にどうしたんだい。一人は危ないヨ」
驚く程に穏やか声音だ。そんな声で刹那の行動を咎めようとする。
何だか明確に一線を引かれた気分だ。自分はずけずけと刹那へ距離を詰めて親密になろうと躍起になっているのに。
面白くない。そうだ、ムカムカする。
水たまりを強く踏む。バシャンと派手な音がし、ズボンの裾が濡れたがそんなのどうでもいい。刹那が大股で歩み寄ればアジアンは大きく目を見開き、凪いだ湖面のような瞳に驚きが浮かぶ。
二人の距離が縮まる。手を伸ばせば腕の中に閉じ込められそうな距離になったところで刹那は立ち止まった。
「ぼくのことなんてどうでも良いだろ、お前に関係ない」
突っぱねるように言いながら、刹那は差していた傘をアジアンの頭上へと傾けた。アジアンに降り注いでいた雨が止んだ代わりに、今度は刹那の全身に容赦なく雨が降り注いでいく。
刹那の行動の一部始終をぽかんとした顔で見守っていたアジアンだったが、目の前の意中の人物がどんどん濡れ鼠になっていくことに気付いたのだろう。ハッとすると傘の柄の上の方を持ち、刹那の方へと押し出す。
「キミが濡れてしまう」
「だから、関係ないって言ってるだろ。ほっとけ」
言動が噛み合っていない。関係ないと言いながら刹那はアジアンに傘を差し出し、どうでも良いと言いながら自分が代わりに濡れている。アジアンが困惑していれば刹那は空いた片手で外套の襟首部分をぐいと引っ張り、フードを引きずり出して頭から被った。
着てきた外套は戦闘向けではないものの、ある程度耐水性と撥水性を持っている。それでも雨に打たれれば身体が冷えるからこうして傘を持ってきたわけだが、本当に傘が必要なのは刹那ではなかったのだろう。
「……お前が」
泣いてるように見えたから。
目の錯覚だろう。長々と雨に打たれているらしいアジアンは頭からずぶ濡れだから。その内の一雫がたまたま目尻を伝う涙みたいに見えた。きっとそれだけだ。
だけど――それがどうしても捨て置けなかったから。
傘を差し出した理由なんてそれだけだ。同情でも憐憫でも何でもない。ましてやプラスの感情なんてない。
その言葉は飲み込み、視線をつま先に落とした刹那が静かに切り出す。
「お前が、何をしようともぼくに関係ない。何を考えていようが知ったこっちゃない。誰と行動しようが咎める権利なんてぼくは持っていないし、指図する理由もない」
そう。別にアジアンが……《昼飯時》が《SmC》と組もうが刹那には関係がないのだ。
でも。顔を上げてアジアンを見上げる。
こうして近距離でこいつの顔を見るのは初めてかもと、思考の片隅で刹那は思う。
整った綺麗なかんばせ。吸い込まれそうと言っても過言ではない青い瞳。お人形のような顔が困惑に包まれているのは、少し胸が空いた気がした。
刹那は傘から手を離す。アジアンは己の手に渡った傘を困ったように一瞥したが、刹那が一歩下がって傘を受け取る気配がないことが分かると素直に己の頭上に差した。
「けど、散々人のこと付け回してズカズカと距離縮めようとしてくる奴が、自分のことになるとしみったれた顔して距離置いて、何も言わないのはムカつくんだよ」
誰かを頼ればいいと思ったが、アジアン程の実力がある者がそうしないということは出来ないということなのだろう。事実《SmC》にはエルデンの治安を守る《秩序の番人》すらも手を焼かされている。
自分を頼ればいい、なんて無責任なことを刹那は口にしない。敵をばったばったと薙ぎ倒せる程の実力者ならいざ知れず、いちクランに所属しているだけの、多少腕に覚えのある侵入者でしかないのだから。
相談にも乗ってやらない。結局自分たちは赤の他人なのだから。
「んじゃ。傘は仕方ないからあげるよ」
フードを目深に被り直し、刹那はアジアンの脇を通り過ぎて街中へと掛けていく。身体を冷やして風邪を引く前に、何か温かいものでも食べなければ。
そんな刹那の背中をアジアンは物言いたげな表情で暫し見つめていたが、頭上に広がる傘を見上げ、僅かに笑みを零す。張り詰めていた緊張の糸が緩むかのように。
一度傘をくるりと手の内で回し、アジアンは歩き出す。刹那とは違う道を。
泣きたくなるような夜だったが、今だけは幾ばくかの安らぎを得られたのかも知れない。そんなことを考えながら、アジアンは傘を打ち付ける雨の音に耳を傾けた。