Other

澪尽し

 歌が、聞こえる。
 名を呼ぶ声が、聞こえる。

 呼ばれるように、誘われるように。寝床を抜け出したアーカディアはふらふらとした足取りで部屋を後にし、廊下を歩いていく。その足にはスリッパも靴のひとつも履いていない裸足だ。
 ぺたぺたと板張りの廊下を歩き、外へと繋がる扉を開く。ギィ、と錆びた音と共に潮風が吹き抜けていった。

 ――いのちの匂いがする。

 足の裏を小石や木が切っても気にする様子もなく、ふらふらと幽鬼のような足取りで足を進める。還るべき場所へ。母親の呼び声に応えて招かれる子のように。
 砂浜を踏み、歩いていく。その先は――夜の暗さを湛える海だ。
 つま先を海水が濡らす。臆する様子もなくそのまま進み、いよいよ足首まで海水に浸かった。

 ――帰らなきゃ。還らなきゃ。

 「お前の居場所はそこではない」と誰かが言う。「戻ってこい」と誰かが歌う。
 誰が呼んでいるのか。それは夢見心地な頭では考える隙間すら見当たらない。
 いよいよ膝下まで海水が濡らす。寝巻きも海水に触れ、水分を含んだそれはアーカディアの足に纏わりついている。まるで海から伸びた手が絡み付いているようだ。

「――アーカディア!」

 誰かが、呼んだ。歌うような心地良い声音ではない、しっかりと質量を持った声で。
 知覚したその瞬間、アーカディアの足が止まる。そうして糸が切れた人形のようにガクリと膝から崩れ落ち――倒れ切る前に抱き留める姿があった。

「はぁ……間に合って良かったよ」

 心の底から安堵のため息を零し、男――エリジウムはアーカディアの顔を覗き込む。今の一連の行動が嘘であったかのように寝息を立てる彼女を見、困ったように小さく笑った。
 彼女は夢遊病を患ってる。いや、無意識下で海に惹かれていると言った方が良いか。だから海に近い街で寝泊まりすると、必ずと言って良い程こうして寝床を抜け出してしまうのだ。
 だから、エリジウムはアーカディアを連れてイベリアを離れたのだ。これ以上海に魅入られないように。――海に還らないように。

「君もソーンズも、海中で呼吸の出来ないエーギルなのにねぇ」

 それでも尚、海に向かう足は止まらないのだからタチが悪い。
 よいしょ、とアーカディアを横抱きにしてエリジウムは立ち上がる。砂混じりの海水がぼたぼたと落ち、乾いた砂浜に染みを作っていく。
 宿屋に戻るその最中。一度だけエリジウムは振り返り、真っ暗な海に視線を投げる。

 ――早く離れないと。この街を。
 帰らないと。戻るべき場所であるロドスへ。


2023/02/21

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