帰冥の喚び声
真っ白で清潔なロドスの廊下を抜け、デッキへと上がっていく。眼前に広がる光景は草木の一つも生えていないだだっ広い荒野だけだが、それでも次の目的地に向かっているロドスの艦は心地の良い風を切って進んでおり、幾分かの清涼感を運んできていた。何日も何日も変わり映えのしない荒野の風景を眺めるだけなのは退屈だというオペレーターも居るが、アーカディアは嫌いではない部類だった。吹いてくる風を受けながら休んだり、読書をすると良い気分転換になる。
だから今日も、こうして任務終わりに休憩がてらデッキに上がって来たのだが――
「あれ……?」
どこからか澄んだ声が風に乗ってアーカディアの耳に届く。デッキは遮蔽物が少ないが何分広さがある。何処が発生源なのかと首を回してみれば、遠く離れたデッキの端に小さな人影を認めた。
誰だろう、と目を凝らしてみる。黒と白を基調とした、修道女のような出で立ちをした女性が手すりに片手を置いて立っていた。彼女の長く美しい銀髪が風に靡き、銀のカーテンを作り出していた。そんな彼女の名を、アーカディアは知っている。
スペクター。同じエーギル族であり、《海の怪物》を狩り続ける《アビサルハンター》の一人。同じエーギル人と言えど海中で呼吸出来る術を持たない、イベリアの一都市の生まれであるアーカディアとは天と地程離れた存在だ。
そんなスペクターはよくよく見てみればただ立って風を浴びているのではなさそうだった。長い睫毛を伏せ、微かに口元が動いている。ああ、風に乗ってきた声は彼女の物で歌声だったんだと理解すれば、耳に届く声は途端に規則性を持った歌として聞こえて来た。
知覚したその瞬間――アーカディアは車酔いにも似た感覚を覚えて立って居られなくなり、その場に膝を付いた。
確かに、ロクに整備されていなくてガタガタとする砂利道を装甲車で進んで酔った事は何度もある。トランスポーターとして営む者としての悲しい宿命だろう。
頭がグラグラとし、胃が逆さまにひっくり返り、見えない手で直接揉まれてるかのような気持ち悪さが込み上げてくる。ぎゅっと目を瞑り、口元に手を当てて気持ち悪さに耐えていれば、アーカディアの頭上から涼やかな声が降ってきた。
「あら。貴方、船酔いでもしたのかしら?」
苦しさで閉じていた瞼を開ければ、デッキに落ちるアーカディアの影が一回り大きくなっていた。顔を上げて真上を見てみれば――案の定。にっこりと口角を持ち上げ、アーカディアのすぐ背後でこちらを見下ろしているスペクターと目が合った。
スペクターが小首を傾げている。何か言わねばとアーカディアは口を開きかけるが、舌が口内に張り付いたように動かない。まるで極度の緊張状態の中に居るみたいだった。
ふむ、とスペクターが思案顔になる。
「貴方、もしかして」
そうして新しい玩具を見つけた羽獣のように笑みを深くし、
「――私の歌の意味が、分かってしまったの?」
血のように赤い目が細められ、アーカディアを射抜く。
――これ以上、彼女に関わってはいけない。トランスポーターとして各地を渡り歩いてきた経験と、本能が警鐘を鳴らしてくる。訳も分からず項にぞわぞわとした怖気を覚え、擦りながらゆっくりと立ち上がったアーカディアはスペクターと距離を取った。
「あら」とスペクターが意外そうに口元に手を当て、驚いて見せる。
「まさか、取って食べたりなんてしないわよ。だから安心して? だって私達、『同族』じゃない」
「そ、れは……」
舌を縺れさせながらも何とかアーカディアは言葉を紡ぐ。
それは、同じ『エーギル人』という事を示しているのだろうか。しかしアーカディアはイベリアの小さな街生まれで、スペクターは海の中の都市の生まれ。同じでありながらスペクターが海中で泳ぎながら呼吸が出来るのとは違い、アーカディアはそんな芸当出来ないのだ。
けど――その言葉が違う意味を持っているとしたら?
『何らか』の外的要因で『海の怪物』の要素が混ざっている『混ざりモノ』同士としての意味合いならば?
違う、とアーカディアは僅かに首を振るう。――私は人間だ。血の通った、生けるモノだ。あんな底知れない、青褪めた怪物たちと違う。
一度深呼吸をする。しっかりと意識を保とうとすれば、車酔いにも似た感覚も吐き気も幾分か落ち着いてきた気がする。
「……スペクターさんの仰る意味は分かりかねますが、私達は確かに同族なんだと思います。……同じエーギル人として、という事ですけど」
「……ふふ、そうね。私達生まれは違えど、同じエーギル人よね?」
含みのある笑みと言い回し。事実がどうであれ、アーカディアがそう言うならそうなのだろう、とでも言うようだ。
「でもきっと、貴方はいつかこの歌の意味を完全に理解する日が来るわ。そうして波が押し寄せる岩礁に腰掛け、歌を口ずさむようになる……それは明日か、一ヶ月後か、来年か、私にも分からないけれどね」
歌うように呟き、スペクターがアーカディアの脇を通り過ぎて艦内へと戻っていく。その最中、肩越しに振り返るとアーカディアへニコリと笑いかける。
「またお話しましょう、同族さん? ああそう言えば貴方、イベリアの建築物や彫刻が好きってなんですって?」
「な、何でそれを……」
確かに、アーカディアはイベリアの文化が生み出した……特に『黄金時代』と呼ばれる、最も文化的に発展していた時期の建造物を好んでいた。『大静謐』で多くの街が廃れ、建造物が朽ち果てた後でも資料を読み漁ったり、小さい模型を作ってみたりもしている。
けど、その趣味を彼女に話した記憶はない。そもそも会話をした回数が少ないのだ。少し前までの彼女はまるで幽鬼のように上の空で……或いは使命に準ずる敬虔なシスターのようでもあり。
だから思わず警戒してしまう。それが露骨に出ていたのだろう、一度立ち止まったスペクターはからかうようにクスリと笑った。
「ドクターから聞いたのよ」
「あ、ああ……」
合点が行く。ドクターの秘書を務めている時、雑談としてそんな話をした記憶はある。
今度こそスペクターが去っていく。その所作はどこまでも優美で、海を悠々と泳ぐ美しい鱗獣のようだった。
スペクターの姿が完全に見えなくなり、アーカディアはやっと安堵の息を吐く。
――あの深い海底を思わせるような歌声は、どうも苦手だ。