ヂェーヴィチ協会
ごう、と高所特有の強風がシンクレアの体に巻き付くように吹き抜けて行き、青い顔をしながらシンクレアは己の武器でもあり配達鞄でもある《ポルードニツァ》をぎゅうと胸に抱いた。
気弱そうな顔が青いのは冷たい風に吹かれて寒いからだろうか? それとも此処が十数階建ての高層ビルの屋上で、ほんの数歩歩けば端に到達してしまいそうな場所に立っているから、その高さに怯えているのだろうか? どちらも少し違う。
恐る恐ると、今から口にする恐ろしい事態を再度確認するような面持ちでシンクレアは傍らに立つその人――同じくヂェーヴィチ協会所属で先輩でもあるラウィニアに声を掛ける。
「あの……ラウィニアさん? 本当にこの道しかないんですか?」
シンクレアが指を差す先は立ち並ぶビル群。舗装された道路なんて遥か下方だ。――この上を跳んで行くと?
嘘ですよね、と言外に滲ませて問う。しかしラウィニアは食べていたエネルギーバーを齧り終えて袋を上着のポケットにしまうと、実にあっけらかんと笑ってみせる。普段なら魅力的であり胸が高鳴ってしまうその笑顔も、今この場ではただただ死刑宣告に近しいモノだった。
「そうだよ~。私のポルポルもそう言ってるし。ねっ?」
《配達目的地までの最短ルートを提示。地上のルートを経由した場合、三時間四八分の配達遅延が認められます》
提げている配達鞄――デリバリーキャリアの側面をコツンと叩けば、すぐさま優秀なAIによる演算結果が返ってくる。ポルードニツァの判断が間違っている筈もなく、言い返す術を失ったシンクレアは青い顔を更に青くするのだった。
地図上ではほんの目と鼻の先の距離だとしても、そう簡単に辿り着く筈がないというのがこの都市の常識である。建物が緻密に建てられていて迂回をせざるを得ないだとか、特異点の力によって空間が拡張しているだとか、そもそも殺人や事件が往々にして起こるだとか、そういった理由は山のようにある。
だから迅速に配達を行うのなら、道なき道を進んで行った方が良い――それがヂェーヴィチ協会に所属する人間の共通認識でもあった。
ラウィニアは頭上に掛けていたゴーグルを下ろして装着する。跳ぶ気満々のようだ。
「む、無理ですって……!」
「え~、無理じゃないってば。私なんてしょっちゅうこういうルート使うし、君だって身体強化の施術受けてるでしょ? だったら楽勝だって!」
「そ、それは確かに受けましたけど……」
そう、別に生身で何メートルも先のビルまで跳べと言っているわけではない。身体施術によって脚力や腕力を強化していることを見越した上での提案だ。施術を受けていればこんなビル群、横断歩道の白い部分だけを跳んで渡るくらい簡単なのだから。
でも、とシンクレアは口ごもる。
「流石にこの高さは、落ちたら流石に……」
「だいじょぶだいじょぶ。落ちなきゃ良いんだし」
そういう問題だろうか。どうにかしてシンクレアが地上ルートへの提案を探していれば、今度はシンクレアのポルードニツァが機械的な電子音を鳴らし、シンクレアはびくりと肩を跳ねさせる。これは警告する時のアラートだ。
《警告。五分以上の座標停滞を確認。これ以上は配達遅延の可能性があります》
「ありゃ」
「ひっ……!」
小言を言われてしまったな、という軽い調子で声を上げるラウィニアと対照的に、シンクレアは恐ろしい言葉を聞いてしまったかのように顔を強張らせていた。
ヂェーヴィチ協会のフィクサーが最も恐れていることが『配達失敗』だ。荷物が届けられないのは勿論、ほんの少しでも遅れることは許されず、遅配は全て配達失敗とみなされる。
遅れたが最後――デリバリーキャリアの有するエネルギーが増幅していき、行き場を失ったエネルギーが使用者を襲う。熟れ過ぎた果物を踏んでしまったかのような姿になる『元』使用者を一度でも目にすれば、それこそ死に物狂いで配達をしなければならないという気持ちになるだろう。
「それじゃ、ポルポルもこう言ってるしサクッと行っちゃおっか!」
そう言いながらラウィニアは数歩下がり、助走を付けて駆け出す。ああ、とシンクレアが声を上げるよりも早く、ラウィニアの体が高く宙を行く。難なく遠く離れたビルに着地したラウィニアは一度振り返るとシンクレアに手を振り、また次のビルへ向かって跳躍していく。
これは、いよいよ腹を括らねばならないだろう。意を決したシンクレアも数歩下がって助走を付け、強く床を踏んで跳躍した。
機械の音と人の入り交じる音のする、ヂェーヴィチ協会の物流倉庫。なんとか無事に配達を終えて帰って来ることの出来たシンクレアは、何処か浮足立った様子で今回の配送の運賃を精算していた。
結果は――
「……わっ、こんなに……?」
想定していたよりも多く、思わず声が漏れ出てしまう。一瞬計算間違いかとも疑ったが、ポルードニツァに限ってそんなことは起こり得ないだろう。それに今回の配送ルートを思えば妥当な金額だと思い……その配送ルートの内容までも思い出してしまい、シンクレアはげんなりとした。
確かにラウィニアと彼女のポルードニツァが提示したルートは敵対組織と遭うこともなく、時間も大幅カットが出来、ある意味理想的なルートだった。
……そう、ある意味では。
とにかくそのルートが危険だったのだ。強化施術前提の跳躍は何度もあったし、足場が不安定な場所もあった。着地した瞬間に足元の床が嫌な音を立てて割れた瞬間の、ヒヤリとした感覚はまだ忘れられない。
これなら戦闘ありきで、多少時間を掛けたルートの方がまだマシじゃなかったかなとシンクレアが後悔している時。唐突に背中に重みが加わってシンクレアは素っ頓狂な声を上げた。
「うわぁ!?」
「え、そんなに驚く?」
肩にも重みが加わる。顎を少し動かして見ればクスクスとイタズラっぽく笑っているラウィニアの顔がすぐそこにあり、頬を赤く染めたシンクレアはサッと顔を逸らした。
――ラウィニアに想いを寄せるシンクレアの心境なんて知ってか知らずか、ラウィニアはとにかく距離が近い。スキンシップは多いし、こうしてくっついてくるのだってザラにある。これではシンクレアの心臓が幾つあっても足らない程だ。
「ち、近いですってばラウィニアさん! というか帰ったんじゃなかったんですか!?」
シンクレアが恥ずかしさで藻掻いていれば、やがて満足したらしいラウィニアがケラケラと笑いながらもシンクレアを解放して離れていった。シンクレアよりも先に精算を終えていたから既に退勤したものだと思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。
頬の赤みを誤魔化すようにシンクレアが制服の襟元を直していれば、用件を思い出したらしいラウィニアがポンと手を叩く。
「ね、ご飯行こうよ、シンクレア。私が奢ったげるからさ」
「お、奢り……ですか?」
「そ! 今日頑張ったでしょ? 大変な仕事だったし、たまには――って」
途中まで言ったところで、ハッとしたようにラウィニアは己の口を両手で隠す。しかし口にしてしまった言葉を取り消すことは不可能に近い。
じと、とシンクレアは半目でラウィニアを睨む。
「……今、大変って言いましたよね」
「言ったかなぁ」
口元を両手で隠したまま、ラウィニアは視線を斜め上へ逸らす。
「あのルート、ラウィニアさんも危険だって思ってるってことですよね!」
「あ、あははー……でもさ! 早く着いたでしょ? だから運賃も良かったし……」
口元を隠していた手をパッと広げて振り、ラウィニアはカラカラと陽気に笑って見せる。しかしシンクレアの怒りは収まらない。
確かに運賃は良かった。これだけあれば貯めるも良し、新しい身体施術の費用に回すのも良いだろう。
だけども、だ――
「命とお金、どっちが大切なんですか!」
「ごめんってば~~!」
結局は命あっての物種なのだ。死後の世界に稼いだ金は持っていけない。
ラウィニアが両手を合わせて頭を下げれば、ようやくシンクレアの溜飲も下がってくる。
「……次はもう少し安全なルートにしてくださいよ」
ボソリと呟けば、顔を上げたラウィニアはまるで救いを得たかのようにパッと破顔させる。そして嬉しげにシンクレアの手を取った。
「シンクレアありがと~~! さっ、美味しいご飯食べに行こ!」
「ちょっ、ラウィニアさん! 色々と急ですって……!」
そうしてラウィニアはシンクレアの手を引き、物流倉庫を飛び出す勢いで出ていく。されるがままに手を引かれながらも、シンクレアは困ったように笑うのだった。
結局ラウィニアに幾ら無茶振りをされても嫌にならないのは、彼女に惚れ込んでいるからなのだろう。