AIは人の夢を見るか?
夢を見る。
朧げで欠けた夢を見ていた。
夢の中でエレミヤは息を弾ませて真っ白な廊下を走っていた。その腕には本が沢山入った紙袋が抱えられており、エレミヤが跳ねる度に一緒にガサゴソと揺れている。
通り過ぎ様に白衣を着た人達――研究者たちが何事かと横目に見てきたりするが、そんな些事にいちいち反応する時間を生憎と彼女は持ち合わせていなかった。そんなものに構うよりも、一分一秒でも早く『彼』に会いたい。
走って走って、目的の部屋に辿り着いた所でエレミヤは立ち止まり、息を整えた私は軽く身なりを整える。服のシワを伸ばしたり手鏡で髪型のチェックをし、用意が整った所で扉をノックした。
返事は直ぐに戻ってきた。
「開いてるぞ」
その声を聞いて、扉を開ける。開け放った途端に風が吹き込んできて、窓を開けているのだろうとすぐ分かった。
入室してみれば今日は調子が良いのか、部屋の主――であるジェバンニはベッドから上体を起こしてヘッドボードに体を預けながら、大きく開かれている窓の外を眺めていた。気怠そうにしながらジェバンニがこちらへと視線を向ければエレミヤが両手に抱えている本に気付き、呆れたように彼は息を吐く。
「よく飽きないよな。毎回毎回、こんな辺鄙な研究所までわざわざ見舞いに来るなんてよ」
「だって、ジェバンニに会うのが私の唯一の楽しみなんだもん! どう? 今日は調子良い感じ?」
「いつもの変わらねぇな」
真っ向からの皮肉も効かない様子に、ジェバンニはもう一度呆れたように息を吐く。エレミヤはジェバンニがどんな言葉をぶつけようとも物ともせず、あっけらかんと笑ってみせる。能天気な奴だと思うが――それが自分の前ではせめて明るく振る舞っていようという彼女なりの気遣いだというのが分かってしまうので、ジェバンニはそれ以上何も言わなかった。
ジェバンニとエレミヤは幼馴染である。運悪く親に恵まれず、運良く《巣》の中で生まれ、程々の施設で共に育った。衣食住に困ったことはなく、学校だって不自由なく通えた。この都市の……もっと言えば裏路地や外郭で生まれ育った者の現状を知れば、如何に自分たちの境遇が恵まれているか理解するだろう。
しかしある日、ジェバンニが病に倒れてしまった。エレミヤたちを庇護するK社の巣の技術であってもそれは治すことが出来ず、伝てを頼ってとある研究所に入院し、治療法の研究を受けているのだ。
対するエレミヤはジェバンニの治療法と治療費を求めてフィクサーとなり、片っ端からありとあらゆる依頼を受けていた。その合間を縫い、こうして外郭にある研究所までジェバンニの見舞いにやって来ている。
そうして順調にランクを一つずつ上げ、《異能》を手に入れたエレミヤはいつしかハナ協会から《色》を授かり――《藍の影》と呼ばれるまでになっていた。
ルンルンと楽しげな様子でエレミヤはジェバンニの傍らにある椅子に腰掛け、持ってきた本を紙袋ごと渡す。ジェバンニが中身を改めれば、中身は芸術に関する本だったり娯楽小説だったりとバリエーションが豊かであった。
エレミヤは申し訳無さそうに眉を下げ、
「……私も色々とジェバンニの病気の治療法を探してるんだけどさ、やっぱり難しいね。今度はH社の巣に行ってみようかなとか思ったり、ディエーチ協会の図書館を利用出来ないか申請してみたりしてるんだけど……」
あらゆる術を尽くしている。尽くせる手は尽くしているのに、一向にジェバンニの病を治す手立ては見つからなかった。
ひょっとして何の手立ても無く、不治の病なのではと考えてしまう時がある。だけど諦めずに<エレミヤは今日も明日も、その次だって新たな術を求めて都市を西へ東へと赴くのだ。
早く。ジェバンニの命が潰えて無くなってしまう前に。
話しながら、ちらりとエレミヤはベッドの傍らに視線を向ける。
ジェバンニのベッドの脇。そこに置かれている点滴スタンドから下げられて彼の腕に繋がれている管と点滴の数は、前回見舞いに来た時よりも数を増やしていた。それを見てエレミヤの表情に一瞬陰が落ちるが、ハッとすると努めてにこりと笑顔を浮かべる。ジェバンニの前では《特色》でもなんでもない、彼に恋する一人の女性だから。
「そこまでしてくれなんて、俺は一回も言ってないけどな」
貰ってきた本を適当に一冊手に取り、表紙を捲りながらジェバンニは無関心そうに呟く。ぷくっとエレミヤは子供のように頬を膨らまし、
「私がジェバンニに生きててほしいの!」
エゴかも知れないが、それがエレミヤの願いだった。
ジェバンニに生きていてほしい。一緒に未来を歩いてほしい。その為だったら何だって出来るのに。
けれど、ジェバンニは生きることにあまり意欲的ではないように思えた。ただ息を吐くだけの毎日を過ごし、『唯一』を除けば何事にも無気力に見える。
表紙を閉じ、サイドテーブルに本を乗せてジェバンニが口を開く。
「俺は、俺の体で得たデータがカルメンの研究の役に立てば十分なんだよ」
「――」
その言葉を聞いたエレミヤの顔から一瞬、全ての表情が抜け落ちる。呼吸すらも一瞬止めてしまった彼女を、幸いかジェバンニが気付くことはなかった。
「……カルメン」
知っている、その名を。知らない筈がない。彼にとっては救済の単語であっても、エレミヤにとっては呪いでもある女性の名前。
少し年上の、ジェバンニの幼馴染。『病に侵されている都市の人々を救いたい』という高潔な願いを抱いて日夜研究に明け暮れる、この都市においては異質なまでに熱心で明るい研究者は、ジェバンニの治療法を探すと同時に彼をとある実験に参加させたのだ。幾らジェバンニの意思で参加したと言えどエレミヤがそれを受け入れられる筈もなく、エレミヤは一方的にカルメンを嫌っていた。
いつも賑やかなエレミヤが押し黙ったことに違和感を抱いたのだろう。別の本を検めていたジェバンニが顔を上げ、エレミヤの名を呼ぶ。
「エレミヤ?」
「……えっ、あっ、ごめんごめん! 少しぼーっとしちゃってたかも」
パッと顔色を変え、にこやかに笑って見せる。ジェバンニは少々訝しんだ様子だったが、エレミヤが「大丈夫だって!」と重ねて伝えれば、そうかと短く返事をしたジェバンニは本の表紙を捲った。
そんなジェバンニの横顔を、少し寂しそうにエレミヤは眺める。
こんなにも想いを傾けているのに、こんなにも彼一人だけを見つめているのに、ジェバンニの視線の先にはいつだってカルメンが居る。それが憎らしいかと問われれば是だった。
憎らしいし、悔しい。どうしたってこっちを振り向いてくれない彼にやきもきするが、生きてさえいればチャンスなんて幾らでもあるのだ。だから今はまだ良いや、とエレミヤは己に言い聞かせる。ジェバンニの病が治ったその時は、しっかりと想いを告げよう。
エレミヤにとって、ネツァクは全てだった。世界であって、酸素であって、光であった。
ならば――それらが失われてしまったらどうなるのだろうか?
光も酸素もない、暗闇の世界。きっとそんな世界では、一瞬たりとて生きられないだろう。
その日は何処か裏路地の喧騒が普段よりも騒がしかったような気がする。
自分宛ての依頼をこなして事務所に戻る道すがら、今の時間を思い出した>エレミヤは昼食を買っていかないとなと気付き、適当な店を探していた。
雑多な細い道を歩く。昼間だというのに既に飲んだくれて地面に転がってる男や怪しい客引きの声を避けつつ、この近辺にはどんな飯屋があったかなと脳内で検索する。確かこの通りを抜けて幾つかの角を曲がった先にテイクアウトが出来る麺屋があったような気がする。味も悪くなかったと記憶しているので今日はそこで良いだろう。そんなことを考えながら歩いていれば、得体の知れない噂話が何処からか飛んできてエレミヤの耳に届き、エレミヤの足は止まった。周囲を見回して噂の発生源を探す。
普段なら気にも留めないか、馬鹿らしい噂だと鼻で笑っていただろう。しかしそうすることが出来ない内容がエレミヤの脳と理性を揺らしていた。
『外郭にある研究所』
『違法な実験』
『《頭》が《調律者》と《爪》を送った』
途切れ途切れにヒソヒソと周囲から聞こえてくるのはそんな物騒な噂。
呼吸が早くなる。急速に頭が冷えていく。
勘違いであってほしかった。外郭なんて広大な場所に研究所なんて幾らでもあるだろうし、違法な実験なんてものは知らない。そう言い聞かせながらもエレミヤは急いでジェバンニの居る研究所へと向かって――
待っていたのは、絶望的な状況だった。
「……何、これ……」
不自然に開かれた正面玄関から研究所に入り、エレミヤは内部に広がる凄惨な光景に愕然とした。
フロアのあちこちに散らばるのは四肢の一部が欠けていたり頭部や腹部が大きく抉れた、研究員であっただろう人物たちの無惨な死体。その酷さを語るかのように壁のみならず天井にまでもべったりと血や臓器の一部が飛んでおり、呼吸のし辛さを覚えるほどに血の臭いで溢れかえっていた。
此処だ。此処だったのは。噂の渦中である襲撃を受けた研究所は。認めたくないという無意味な理想を願っても、エレミヤの眼の前には夥しい現実だけが横たわっている。
……ジェバンニ。そうだ、ジェバンニだ。呆けている場合なんかではない。エレミヤは震える足を何とか奮い立たせて進み、死体を避けて廊下へと向かう。人気の絶えた研究所には、エレミヤの足音と過呼吸になりそうなほど早い彼女の呼吸の音だけが響いていた。
血で汚れた廊下を歩き進む。通い慣れた道だというのに、今日に限っては彼の病室がやけに遠く思える。
そうして辿り着いた先。緊張と恐怖で指先の感覚がなくなって、上手くドアノブが掴めない。
ガチャリ。ようやく捻って扉を押した先。いつものベッドにいつものように横たわっているジェバンニの姿を認め、エレミヤは己の体からどっと力が抜けるのを感じた。膝から崩れ落ちそうになるが、ドアノブを掴んでどうにか堪える。
生きてた。ジェバンニが。この地獄みたいな場所でも、ジェバンニは無事だった。
「ジェバンニ……!」
ベッドサイドに駆け寄り、ジェバンニの手を取る。――温かい。生きてる。
嬉しさのあまりじわりと目頭が熱くなるが、ふと違和感を覚えたエレミヤはジェバンニの肩を揺さぶった。
「……ジェバンニ? どうしたの?」
強めに揺さぶる。それでもジェバンニが起きる気配は見せない。
嫌な汗がエレミヤの全身から吹き出る。そんなはずはない。ジェバンニはこうして生きている。
いやいやと、駄々をこねる子どものように首を振りながらエレミヤはジェバンニにしがみつくように座り込む。確かに脈動する、自分よりも白くて骨ばった彼の手を握りしめながら。
「違う、違うよね……ね、ジェバンニ……。ほら、起きてよ、起きようよ。まだ話したいことが沢山あるんだよ? それに、それに……」
話してないこと、行きたい場所、まだまだ沢山あるのに。
嗚咽が込み上げてくる。溢れてきた涙を拭わずにポロポロと零していれば不意に人の気配を感じ、エレミヤは反射的に背後を振り返った。――そうだ、失念していた。まだ《調律者》と《爪》が残っている可能性を。
しかし。エレミヤが振り向いた先にはそのどちらも立っていなかった。ジェバンニの病室の出入り口に居たのは黒髪に金の目をした白衣の男。白衣を身に纏っているということは偶然にも生き延びた研究者なのだろうが、ジェバンニ以外に微塵も興味が湧かないエレミヤからしてみれば数度顔を合わせた人も初対面の人も、そう大差はなかった。
警戒を顕にしながら男を観察していれば、無感動そうな金の目が此方を見下ろしてくる。
「ジェバンニは自分の命でカルメンを生き返せられると、自ら望んでコギトを投与する実験の被験体になった」
「――は、」
何を言っているのだろうか、眼の前の男は。
意味が分からず、言葉にすらならない言葉がエレミヤの喉を滑っていく。
「何、何を……言ってるの? コギト? カルメン……カルメンは死んだの? あの人が?」
カルメンが死んだ? いつも嫌になるほど前向きで明るい、あの夢想家の女が? 信じられない。そして彼女を救うための実験にジェバンニは参加していたと?
「……蘇生など出来ない。カルメンが生き返る筈もないのに、私はそれを彼に告げることが出来なかった。彼の唯一の希望すらも潰したくはなかったからだ」
男の視線がベッドに横たわっているジェバンニへと向かう。その視線は何の感慨も込められておらず、彼の思惑を図ることは難しかった。
「彼はもう二度と目を覚まさない。苦痛でまともに眠ることさえ出来ず、覚めない夢の中だけでも幸せだろうと信じたのは私の利己心だった」
頭をハンマーで殴られたかのような衝撃がエレミヤを襲う。眼の前がぐらぐらとしてきて上体を起こしていられず、ジェバンニの手を離したエレミヤは床に手を付いて己の体を支える。
そうしないと現実を受け入れられそうになかった。ジェバンニが……世界で一番愛おしい人が二度と目覚めないなんて。
呼吸が上手く出来ない。今自分が床にしっかりと手を付いているのかぐるぐると回っているのか判別が付かない。
「……は、ははは」
小さく肩を揺らしながらベッドの端を掴んだエレミヤはゆらりと立ち上がり、白衣の男と対峙する。
だって面白いではないか。結局『ジェバンニのため』とひたむきに走り続けていたのはエレミヤのただのエゴであり、走り続けた先のゴール地点に待ち受けていたのは無情な現実と絶望だけだった。
馬鹿らしくて笑えてくる。
愚かしさに涙が出てくる。
ならばこの人生――果たして意味はあったのだろうか。
「あはははは!!」
腹を抱えてエレミヤは笑う。涙を流したまま哄笑する姿はあまりにも哀しく、痛ましかった。
ふと、電池の切れた人形のようにピタリと笑うのを止めたエレミヤは虚空に手を翳す。すると周囲の影が収束し、それは一本の黒い剣となる。
男は一瞬その剣に視線を落とすが、臆する様子や警戒する素振りは見られない。そうしてエレミヤは剣を持ち上げ――剣を回し、刃を己の首筋に当てた。
皮膚に刃が食い込む。けれども剣に込める力が弱まる気配はない。
生気を失った、空虚なエレミヤの瞳が男を捉える。
「もう、全部どうでもよくなっちゃった。ジェバンニの居ない世界なんて、もう要らない」
躊躇いもなく、剣を握る手を一息に引く。
傾きゆく世界の中で最後に見たのは、燦然と輝く月のような瞳だった。
意識が浮上する。
アイカメラを起動させて周囲を見渡してみれば、そこは会議室だった。回らない頭を動かし、ツァディーは考える。……そう言えば上層と中層セフィラの会議があるからと集合したは良いものの、時間を間違えて早く来てしまったのだったか。だからぼうっとしていたらいつの間にかうたた寝してしまい、何か夢を見たような気がして――
そこまで考え、自嘲するようにツァディーは笑う。機械の体であるAIが夢を見るなんて。人間でもあるまいし。
所詮は記録の整理に過ぎない。けれどそう言い切れない『何か』があり、ツァディーは暫し頭を捻る――が、モヤを掴むかのようにすり抜けていき、答えを掴むことが出来なかった。
思い出せないのならそれでいいか、とツァディーは思考を頭の隅に追いやる。
AIは夢など見ないのだから。