汝自身を知れ
ウロウロと、安全チームのメインルーム前の廊下を徘徊する姿がある。落ち着かなさそうに同じ場所を何度も行ったり来たりしているのは、この安全チームのもう一人のセフィラでもあるAI、ツァディーだった。
何故こんな事をしてるのかと言うと──そのタイミングでメインルームの扉が開き、中から出て来た人の姿に気付いたツァディーはハッとすると駆け寄った。そして切羽詰まったように男の名を呼ぶ。
「管理人! ネツァクは……!」
対する男──管理人は白衣のポケットに手を突っ込み、ツァディーと相反するような落ち着いた態度で口を開いた。
「大丈夫だ。ネツァクはもう落ち着いた。今は眠っているだろう」
「そっか、良かった……」
聞きたかった言葉が聞けたのだろう。緊張で強張っていたツァディーの表情が安堵の色に染まり、ほっと息を吐いた。
つい数時間前の事だ。ネツァクのコアが暴走し、全ての部門のメインルームで受ける事の出来る回復機能が停止してしまったのだ。
回復機能が止まったところで、ロボトミー社の運用が止まるわけがない。万事何時ものようにアブノーマリティたちに作業指示を飛ばし、訪れる試練とクリフォト暴走を乗り越えねばならないのだ。
暴走が起きる度、ネツァクのコア暴走は進んでいった。最初はメインルームでの回復機能が半減する程度でも、一日の終わりが見えて来る頃には全ての回復機能が失われ、ジリ貧の中での業務を強いられていた。
しかし――管理人が的確に指示を飛ばし、ツァディーたち他のセフィラの連携もあり、どうにかネツァクのコアを抑制させる事が出来たのだった。
そうして床に倒れたまま動かないネツァクを心配し、管理人が安全チームまで足を運んだ……それがこれまでの経緯だった。
ツァディーの視線が管理人と安全チームに繋がる扉の間でウロウロと彷徨う。「行ってやれ」と声を掛ければ彼女はパッと表情を明るくさせ、小走りで扉へと掛けていく。
ドアノブに手を掛けた時。ピタリと不自然にツァディーの動きがとまる。どうしたと管理人が問えば不安そうな声色が飛んできた。
「管理人……ネツァク、起きるよね?」
何故そんな当たり前のことを、と思った。しかし先程の暴走を思えばその不安も当然かと納得し、管理人は首を縦に軽く振る。ネツァクの機械の体に溜まっていたエンケファリンを洗い流す必要があったが、直に目を覚ます筈だ。
しかしツァディーの中にある不安感は消えてくばかりかどんどんと膨らんでいく。嫌な予感に無い筈の背筋がゾワゾワとする感覚さえしてくる。
ネツァクが眠っていると聞いた時、ふと抱いたモノがあるのだ。――二度とネツァクが目覚めないかも知れないという、漠然とした不安感を。
ドアノブを掴んでいた手が緩み、ツァディーは己の顔を両手で覆う。見覚えのない光景が断片的に脳裏に浮かんでは消えていく。
これは『何』の記録だ? 『誰』の記憶だ? 機械の体で造られたAIにこんなものは存在しない筈なのに。
これは《ツァディー》の記録ではない。
だったら――誰のだと言うのか。滂沱として流れ込む記憶を抱え込むようにツァディーは己の顔を両手で覆う。
「そう……そうだよ……ネツァクはまた起きてくれる……私とだって約束を……」
「……ツァディー?」
ツァディーはうわ言のようにブツブツと呟いている。訝しんだ管理人の声も聞こえない程に。
脳裏の映像は目まぐるしく変わっていく。白い廊下。寂れた裏路地。ツァディーと一緒に登下校をする緑髪の少年。血塗れで息絶えた人々と、血の滴る武器を握る自分の手。――ベッドに横たわり全く反応を示さない緑髪の青年と、自分を静かに見下ろす黒髪の研究者。
金色の瞳が、自分を睥睨している。
『ジェバンニは自ら望んで実験の被験体になった』
『自分の命でカルメンを助けられるならと、コギトを投与する実験に参加した』
『……蘇生など出来ない。カルメンが生き返る筈もないのに、私はそれを彼に告げることが出来なかった。彼の唯一の希望すらも潰したくはなかったからだ』
『彼はもう二度と目を覚まさない。苦痛でまともに眠ることさえ出来ず、覚めない夢の中だけでも幸せだろうと信じたのは私の利己心だった』
「ツァディー、どうした」
ツァディーを現実に引き戻したのは、記憶の中と全く同じ声音だった。
「――ああ、」
そうか。そういうことだったのか。
全てを理解する。分かってしまう。自分が何者だったのかも。『前世』の果てが如何に絶望的であったかも。
ゆらりと振り返り、ツァディーが管理人と向き直る。指の隙間から覗く瞳がぎょろりと動き、正面の男を捉えた。
嫌な予感に管理人の肌がざわつく。
「ジェバンニはもう二度と目を覚まさない」
静かに吐き出された言葉は明朗な彼女らしくない、あらゆる感情が排斥された無感情な声音を持っていた。機械めいた平坦な声音は、彼女が本来AIであると思い出させるには十分だ。あくまでセフィラという存在は認知フィルターを通して人のように見えているだけの、ロボトミー社を円滑に管理するためだけのロボット。そうだったのだと。
「あんたが、あの女が、ジェバンニを殺した。あんたたちの下らない理想のせいで。尊いと宣う実験のせいで」
話の脈絡が全く見えてこない。呪詛めいた言葉に管理人は半歩後ずさった。『あの女』とは誰を示しているのだろうか。今の自分には心当たりが全くなく、困惑してしまう。
明らかに今のツァディーは異常である。アンジェラに報告するか迷っていると突如としてスピーカーからけたたましく警報音が鳴り始め、管理人は反射的にスピーカーを見上げた。
普段耳にしている、試練やアブノーマリティが脱走した時になる警報音ではない。数度経験した異常事態……セフィラが暴走する際に鳴る警報音だ。それはつまり――。
眼前のツァディーへ今一度視線を向ける。顔を覆ったままのツァディーはその場に蹲っており、彼女の周囲にはユラユラと藍色の陽炎のようなものが立ち昇っていた。
……いや。管理人は気付く。
あれは陽炎ではない。彼女の足元にある影が一定の意思を持って蠢き、炎のように揺らめいているのだ。
影が揺れる。そしてツァディーの体を覆い尽くさんとばかりに纏わり付き、彼女の姿を別のものへと変えていく。
《セフィラ崩壊によるクリファ顕現。セフィラコアの抑制が必要です。各部署の制圧職員は速やかに安全チームへ集合してください。繰り返します――》
ツァディーに纏わりついた影は禍々しい鎧のような姿を象り、右手には影で創った細身の剣を握る。あまりの威圧感に管理人が一歩後ずされば、それを許さないとばかりに異形と化したツァディーも一歩進んだ。
鎧の下から、くぐもったツァディーの声が聞こえてくる。
「ねぇ、どうすればジェバンニは救われた? 何をすれば私は救われたの? どうすれば私の行動は報われてたの? ジェバンニへの気持ちを諦めれば良かった? 私の行動は無駄な足掻きだったって、どこかで諦めれば良かったの? 教えてよ、ねえ」
心が悲鳴を上げている。捻じれ、軋んだその声に応える術を、管理人は持ち合わせていなかった。
誰かに強く腕を引かれる。反射的に振り返れば、今の放送を聞いて駆けつけたのだろう。高ランクのEGO装備を装着した職員が切羽詰まったように管理人の腕を引いていた。
「管理人! 下がってください!」
「此処は危険です! 急いで情報チームに退避してください!」
「中央本部チーム、今すぐ処刑弾の準備をお願いします!」
更に腕を引っ張られ、たたらを踏むように管理人は廊下の先にあるエレベーターへと駆けていく。入れ替わるように数名の職員が武器を持ち、或いは各所に指示を飛ばしながら前に出ていく。
エレベーターに乗り、扉が閉まる間際。一瞬だけ振り返った管理人の目に映ったのは咆哮を上げながら剣を振り上げる鎧の姿だった。
《ツァディーのコア無力化。藍色の影が出現します》
虚ろな夢を見ていた。
そこで私は凄くむしゃくしゃしていて、やるせなくて、悲しくて、苦しくて。その気持ちを発散させるように叫んでいた。手当たり次第に暴れていた。
一通り暴れて、私はその場に倒れ込むと目を閉じる。もう全部知らない。もう何も要らない。放っておいてほしい。そんな子どもが拗ねるような感情を抱きながら。
きっとこのまま眠りに付けば、いつか終わりが来てくれるはずだから。人知れず朽ちていく木のように、静かに緩やかと。
けど、そんな私の鼓膜を叩いたのは明朗な女性の声だった。
「あら、諦めちゃうの?」
綺麗な声だ、と思った。水のように澄んでいて、鈴が転がるみたいに軽やかだ。
けど今の私にはただのノイズでしかなく、眉根を寄せて体勢を変える。邪魔をしないでほしいんだけど。
「だって、貴方はまだ自分のために生きてないじゃない」
その言葉に私は僅かに目を開けた。病院みたいに真っ白な床が視界に入る。
「……違う。私は私の願いのために走り続けてきたもん」
ジェバンニを救いたい、ジェバンニに振り向いてもらいたい。ジェバンニに生きてもらいたい。それは間違いなく私の願いで、エゴであった。彼が望まないものを無理やり押し付けていたのだから。
綺麗な声が「いいえ」と否定をする。
「それは『生きる目的』だね。そうね……好きな食べ物は? 本は? どういう景色が好き?」
「それ、は……」
言葉が詰まる。からかうような笑い声が聞こえてきて少し癪だったが、そこで私はようやく気付いたのだ。
――『私』という個人はあまりにも不透明で、何も持たない存在だったのだと。好きなものの一つも出てきやしない空っぽな女だったのだと。
「貴方はこれからそれを探しに行くの」
「でも……私は」
もう疲れてしまった。起き上がることさえ億劫なのに。
もう一度瞼を閉じようとする。すると硬かった床が突然トランポリンに変わったかのように柔らかくなってぐにゃりと歪み、私の体が沈む。体勢を保とうと藻掻けば藻掻くほどにどんどんと体は沈んで行き、私は焦りながら元の床があった場所へと目を向けた。すでにそこは一メートルほど高い位置にあり、今こうしている間もどんどんと遠くなって行く。まるでこの場から立ち去れとでも言うかのように。
その縁に誰かが立ち、私を見下ろしている。逆光で誰かは分からないが、もしかして声の持ち主だろうか。その人は私を助けるでもなく、観察でもするかのように此方を眺めていた。
沈んでいく。
奈落のような暗闇に落ちていく。
「貴方はまだ生きなければならないの。諦めることは許されない」
優しくて此方を慮るような声音だが、嫌にはっきりと拒絶の意思が感じられる声。
私が私の意志でもう立ち止まりたいと言っているのに、どうしてそれさえも許してくれないのか。そもそもとして、どうしてこの女に許可を取らないといけないのか。まるでこの女が神かなにかみたいではないか。
苛立たしい。怒りをぶつけるように私は口を開いた。
「あんた、何様のつもり……!」
「あら――」
意外そうな声が降ってきて、微かに笑う気配がする。
「此処では死さえも私の許しが必要なの」
そんな綺麗な声と共に、私の視界は暗闇に沈んでいった。
意識が浮上する。アイカメラを瞬かせて起動してみれば、ツァディーの視界に映ったのは薄い緑色の天井だった。――安全チームのメインルームのようだ。
何故床に倒れているのか分からない。周りも水を打ったように静かだ。頭に色々と疑問符を浮かべながら重たい体を動かして起き上がれば、近くの椅子に腰掛けている者が居ることに気付いた。その者もツァディーが起きたことに気付いたようであり、遠くを向いていた瞳が動いてツァディーを捉える。
「気が付いたか、ツァディー」
「……管理人……? 私、何して……」
言い掛けて、思い出す。
怒りのままに剣を振るったことを。吠えたことを。脱走したアブノーマリティのように暴れて破壊の限りを尽くし――そうして討伐されて、沈静化させられたのだったか。
「……あー、ほんと……」
床に座り込んだままツァディーが顔を覆う。しかしそれは涙を流すためではなく、恥ずかしさで顔を見られたくないからだった。
だって直視出来ない。申し訳無さでいっぱいだ。感情が高ぶっていたとは言えあのような醜態を晒した挙げ句、各部門に甚大な被害を与えてしまったのだから。
顔を覆っていた手を離し、床に手を付く。緑色の天井をぼんやりと見つめながらツァディーは呟いた。
「なんか……私って周りが見えてなかったんだなって思ったんだよね」
ただひたすらに走り続けていた。脇目も振らずに、愚直に、まっすぐに。言葉にすれば美しいそれも、何も見えていなければ自己満足である。
「だから……もう少し視野を広くして生きてみようと思うんだ。自分のことを知って、自分と向き合うの。……折角また生きてられるんだからね。まあ、機械の体ってのは生きてる内に入れて良いか分かんないけど」
そう言い、ツァディーは可笑しそうに体を揺らす。そんな彼女を見つめながら、管理人は今しがた呟かれたツァディーの言葉を脳内で反芻していた。
自分と向き合う。当たり前のことなのに、久しくその感覚を忘れていたような気がする。何時から自分は己から目を背けて、ひたすらに――カルメンの悲願を叶えようと走り続けてきただろうか。
ツァディーが立ち上がり、管理人の側までやって来る。そうして手を差し出す。握手を求めるように。
「あんたのことも教えてよ、管理人。私はあんたがどんな物が好きなのかも知らない。得意なことだって知らない。知ってるのはあんたが黒髪で、金色の瞳をしてるってことだけ」
一瞬視界にノイズが走る。認知フィルターに支障が出たのだろうか。
管理人が僅かに顔を顰め、次に目を開けた時。そこには人形をしたツァディーではなく、藍色のロボットが手を差し出していた。
そうか、と納得する。――ようやく彼女の顔を正面からしっかりと見たのだ。
「そうやって、理解させてよ。対話は理解への一歩だと思うから」
しっかりと握手を交わす。
自分と向き合うことは恐ろしいことではないのだと、確かに感じながら。