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ここでは逃避行を選んだ男女の話が語られる

 城の大広間に、一人分の足音が響く。その足音の持ち主は冷たい石の床をブーツで叩き、次いで上等な赤い絨毯を踏みながら最奥へと向かう。そうして――サンチョは数段高い位置に座する玉座の前まで辿り着くと足を止め、玉座の肘置きにそっと触れた。
 上質なベルベット生地の張られた玉座は、作る際に我らが《父上様》が拘りに拘って選んだ素材だ。木材も選びに選び抜いたと自慢していたし、この大広間に広がる絨毯だって値段にすればどれ程になるか。
 肘置きを撫でれば、滑らかな感触がサンチョの指に触れる。しかしこの玉座に座す者は既に居らず、また今後も現れないだろう。
 肩越しに大広間を振り返る。在りし日は窓から差し込む日光が赤く染まるまで父上様は騎士たちが語る冒険譚に心を踊らせ、夢を見、笑い声を響かせていたこの大広間も、そこに誰も居ない。
 玉座におわす父上様を子供たちで囲んで談笑していたあの夜も、もう訪れない。
 サンチョ以外、誰一人として居ない。

「…………」

 小さく嘆息する。吸い込む空気は冷え冷えとしていて、物悲しかった。
 そも、どうしてこうなっているのだろうか。どうしてこうなってしまったのか。自分の行動に非がなかったか、或いは不敬にも父上様の行動に問題はなかったか、過ぎし日々を振り返りながら思い起こす。
 《フィクサー》を自称する人間の騎士たちが門扉を叩いた時、直ぐに追い返せば良かったのか。しつこくもやって来る彼らを無下にすれば良かったのか。彼らが談笑している時に柱の後ろで息を潜めるのではなく前に出て、愚かな話なんてと止めさせるべきだったのか。
 分からない。きっとそれらは全てが過ちだったように思えるし、どれか一つだけかも知れない。分かるのは――敬愛すべき父上様が愛する子供たちを捨て、騎士の一人に愛を注ぎ、その手を取って全てを投げ捨てたことだけだ。
 そう。文字通り。我らが偉大なるドン・キホーテは夢を追い、愛を得るために全てを捨てたのだ。
 血族であるサンチョたちを。帰るべき場所であるこの城も。
 全て、全て――あの人間のために捨ててしまった。いとも容易く。それはさながら飽きた玩具を床に放る子供のように。
 肘置きを掴むサンチョの手に力が篭もる。

「それ程までに……あの人間を愛したと言うのですか」

 問い掛けに応える者は居ない。サンチョの投げかけはただただ冷たい虚空に溶け込んでいく。
 エストール。バリの《従者》を名乗り、行動を共にしていたフィクサー。物語の《語り部》。
 父上様は彼女の持ち込む話を大層気に入っていたから、彼女の語りを聞いている内に好感を抱いていったのだろう。そう考えるだけでサンチョの臓腑はフツフツと煮え滾るような感覚を抱き、感情に任せて手に力を込めた。バキ、と派手な音を立てて手の内にあった肘置きは粉々に打ち砕かれ、手の内に残った木片をサンチョはじっと見つめる。
 まるでこの粉々になった木片は今のサンチョの心情を表しているみたいだ。抱いていた安寧の未来や家族たちとの暖かな生活も、全て崩れ去ってしまった。何とも惨めで悲しい末路か。
 サンチョは手を叩き、木片を払う。

「……父上様。貴方がその責務を捨て、家族をも見捨てるというのなら、その責は私が負いましょう。家族の面倒も見ましょう」

 踵を返し、玉座の前の階段を下る。
 最早、こんな只の椅子に興味も関心もなかった。

「だから、私たちも貴方を捨てましょう。貴方がそうしたように、貴方の愚かしい理想を投げ捨てましょう。そして我らは血鬼らしく、堂々と生きるのです」

 寒々しい宣告が広間に響く。
 父上様の掲げた崇高な理想などもう関係ない。夢のようなラ・マンチャランドで人と血鬼が楽しく手を取り合い、共存するなどという馬鹿げた妄言も、今日此処で破却されるのだ。
 夢は此処で終わる。
 サンチョはマントを翻し、廊下を進む。向かう先は――姉妹の待つパレードの先頭だ。

「さようなら、父上様。どうか二度と相見えることがないよう祈ります。再会した時は貴方の胸に釘を打ち、赤い雨を降らせる時なのですから」


 暖かな日差しが若草色の丘に降り注ぐ。風も穏やかに吹き付けてきて心地が良い。
 絶好昼寝日和とも言えるそんな中、大ぶりな枝葉を伸ばす大樹の根本で一人の男がごろりと寝転がっていた。白いシャツに黒のスラックスというシンプルな出で立ちだが、男の整った顔立ちや手足の長さで不思議と安っぽさは感じられず、いっそ高貴ささえ漂わせていた。
 ……実際、彼は高貴な立場であったのだが。
 白銀の長い髪を風が掻き混ぜていく。すると遠くから草を踏む音がし、男――ドンキホーテは薄く瞼を持ち上げた。
 足音が傍らで止まり、愛おしい姿が視界に映る。

「こんなとこに居たんだね」

 嬉しそうに微笑んだエストールはドンキホーテの隣に腰を下ろし、背後の木に背中を預ける。ゆるりと微睡んでいたドンキホーテも体を起こすと並んで座った。
 外郭にあるこの小高い丘に移り住んでからまだ幾分も経っていないが、中々に良い場所だとドンキホーテは思っている。風光明媚でありながら滅多に人が寄り付かないこの場所は、ひっそりと隠れ住むにはうってつけの場所だ。
 もっとも――人の寄り付かない理由は、都市から外郭へ一歩でも出れば怪物が跋扈する地であるからなのだが、この二人の前ではそんな脅威も無意味だろう。何せ方や血鬼の第一眷属、方や名の通ったフィクサーなのだから。
 ……どちらも《元》と肩書きの前に付くが。

「……平和だな」

 ドンキホーテが静かに呟く。
 穏やかな時間だ。まるで夢のように。けれどこれは確かに現実なのだ。
 ──二人が全てから目を背け、全てを手放して完成した、歪な形をした仮初の《平和》。

「なあ、エストール

 ドンキホーテは名を呼んで隣のエストールの肩に頭を預け、瞳を閉じると甘えるようにして擦り寄る。

「……本当に、俺の手を取って良かったのか?」

 それは心の奥底の何処かで抱えていた小さな迷いだった。
 ドンキホーテが差し出した手を拒むことなく握り返したのは間違いなくエストールの意志なのだろうが、その決断をさせるに至り、この生活を強いているのは自分だという認識が強かった。
 《白き月の騎士》であるバリの《案内人》を辞めざるを得なくさせたのも、旅路を途絶えさせたのも、常に死や脅威も隣り合わせの生活をさせているのも――全て、自分のせいだと。
 血を分けた大切な家族を捨ててまでも生涯を共にしたいからと。俺も全てを捨てるからお前も捨ててくれないかと、懇願したから。

「お前は………今、幸せか?」
 
 だからこそ、本当にエストールは幸せなのだろうか? そんな疑問が常にドンキホーテに纏わりついていた。自分が無理を強いたから付いてきただけであって、本当は都市に居て、今まで通りの生活をしていた方が――

「ドンキホーテ」

 そんな思考を遮るように、静かな声音でエストールがドンキホーテの名を呼んだ。
 頭を起こして彼女を見やれば、いつになく真剣な面持ちをしたエストールと対面する。エストールの瞳の中には偉大なる第一血鬼ではなく、彼女の答えを不安そうに待つ一人の男が映っていた。
 エストールがそっとドンキホーテの手を握る。

「……何か勘違いしているみたいだけれど、私は貴方に請われたからこの生活を送ってるわけじゃないよ。貴方が好きで……心の底から愛していて、全部をなげうっても良いと思えたから貴方の手を取ったんだ」

 握ったドンキホーテの手を持ち上げて己の頬に当てたエストールが、柔らかく微笑む。
 そう、エストールは自分で選んだからこの場所に居る。愛おしい男の隣に。それもひとえに彼を愛しているから、ただそれだけだった。
 彼の為ならば全て捨てられる。友も名誉も理想も、何だって。

「だから今、私は凄く幸せだよ。……まあ確かにこの生活は少し不便なとこがあるけれど、大好きな貴方が居るんだ。そんなの瑣末事さ」

エストール……」

 そこまで言われて嬉しくない筈がないだろう。表情を緩ませたドンキホーテは空いている手でエストールの前髪を払うと、そこに口付けを落とした。エストールがくすぐったそうに笑う。

「愛している。エストール

「私も愛しているよ、ドンキホーテ」

 丘の上で二人は微笑み合う。
 ――例えそこが誰かの犠牲で積み上がった丘で、いつかは雨のように降る血で偽りの幸せ共々一切が洗い流されてしまうとしても。


2025/09/28

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