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赤い意図

 くたびれ、ボロボロになった体を引き摺って、ルチオは充てがわれた自室へと戻って来る。備え付けのチェストに向かうと痣だらけになった腕をなんとか動かし、引き出しの中から手のひらサイズの軟膏を取り出した。ケースは少年が扱うにしては随分と可愛らしく、洗礼されたデザインをしている。誰かから贈られたのであろうことは推察が出来た。
 蓋を開け、中身を指で掬って取り出し、服を捲ったルチオは痣が出来た腕や胴に塗っていく。これで明日には痣も薄くなり、腫れは引いているだろう。塗り終え、蓋を閉めようとしたルチオはふと中身に視線を落とした。
 薄い乳白色をした軟膏。何度も使っているだけあって既に容器の底が見え隠れしており、もう残りは少ない。あと何度使えるだろうか。あと何度、ヴァレンチーナからの暴力に耐えればこの軟膏を与えてくれた《あの人》は来てくれるのか。意味もなく指折り数えてしまう。無駄な作業だと言うのに。
 そもそも、彼女……《親指》のアンダーボスであるミアがこの《蜘蛛の巣》にやって来る頻度がそう多くない。それもその筈だ。彼女が家庭教師をしていたヨシヒデは巣を去ってしまい、その時点でお役御免となっているのだから。そんなミアがこうして時折足を運んでいるのは、ひとえにルチオの為だった。既知の仲であるヴァレンチーナの様子を窺いに来た時に、あまりにボロボロなルチオが目に留まったから。それ以来ミアはアンダーボスとしての仕事の合間にルチオの下へやって来ていた。

「もう、ヴァレンチーナってば。またルチオを叩いたのね。可哀想に、頬がこんなに腫れてるじゃない」

「これ位、大したことではありません。《パレルモ》を身につける為ですから」

 記憶の中のミアが眉根を寄せる。

「大した傷よ。どうせその服の下にも、痣と傷とたんとこさえてるんでしょう? ……そうだ、ちょっと待って頂戴」

 思い出したように、ミアは手持ちの鞄の中を漁る。取り出したのは化粧品のように美しい装飾が施された、丸いケースだ。それをルチオの手に握らせる。

「……これは?」

「軟膏よ。K社製だから効果は保証するわ」

 ルチオの瞳が僅かに見開かれた。手の内の軟膏とミアの顔を、困ったように交互に見やる。

「そんな……頂けません。僕の身には余る物です」

 巣の特異点が使われた薬品など、どれだけ高価な品か想像すら出来ない。自分には不相応の品だろう。
 緩く首を振り、ミアに返そうとルチオは軟膏を差し出すが、ミアは差し出されたルチオの手をやんわりと押し返してしまう。

「使って。ね?」

「困ります。師匠にバレたら、何と言われるか」

「私に押し付けられたって言えばいいのよ」

 悪戯っぽく笑う。年はルチオよりもうんと上の筈なのに、その笑顔はまるで少女のような華やかさがあった。
 仕方なく、ルチオは軟膏を受け取る。深く一礼をして礼の言葉を述べれば、ミアが再び笑ったような気配を感じた。
 
 記憶の海から浮上する。記憶の中の彼女は側におらず、がらんどうで肌寒い部屋の中にルチオだけが立っていた。
 早く会いたい、と願ってしまう。彼女といる時間はとっておきの甘味よりも甘く、優しい時間だから。
 同時にもう二度と会えなくなってしまえばいいと思う自分もいる。その僅かな至極の瞬間を待つ為だけに、何日も何ヶ月も暴力を耐え忍ぶのはあまりにも苦痛だから。明日は来るだろうか、と勝手に期待して勝手に落胆する日々など終わりにしたいのに。

「……ミアさん」

 差し出された糸と手は、あまりにも手放しがたいのだ。
 軟膏のケースにそっと口付ける。明日こそは会えるようにと、僅かばかりの祈りを捧げながら。

2026/01/18

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