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指切り

「ルチオ~、ヴァレンチーナ~! 今日も元気かしら?」

 親指の廊下に朗々とした声が聞こえる。上質な革張りのソファに酒の入ったグラスを傾けていたヴァレンチーナが煩わしそうに顔を上げれば、幾つかの紙袋を腕に下げたミアがにこにこと上機嫌そうに此方へやって来る姿を目に留めた。
 長い足を組み、ヴァレンチーナはグラスの中身を一気に煽る。

「またアンタかい。チケットはもう居ないってのに、よくまあこんな所に来るよ」

 この《蜘蛛の巣》に囚われ、押し込められているヴァレンチーナと違い、あくまでヨシヒデの外部講師であるミアは自由に出入りが出来る。好きな時に来て、好きな時に帰れるのだ。
 憎たらしい、とヴァレンチーナは歯ぎしりをする。
 彼女はヴァレンチーナに無いモノを持っている。喉から手が出る程欲しいアンダーボスの座も、名誉も、自由も。何もかもだ。
 忌々しい。しかしそれを表に出した所で良いことは一つもない。いつかの日は顎一つで命令を下していたミアも、今ではアンダーボスなのだから。逆に彼女の一声でヴァレンチーナの首が吹き飛びかねない。
 代わりに親指で背後を指し示す。そこには礼儀正しくピンと背筋を伸ばし、師匠の次の命令を粛々と待つルチオが居た。

「そんなにアタシの《教本》が気に入ったってのか?」

「だって、可哀想で痛々しくて見てられないんだもの。ああ、頼まれていたお酒とシガーは此処に置いておくわね」

 持ってきた紙袋を、ソファ前のローテーブルに置いていく。ドサドサと重たい音。どれだけの酒を持ち込んだのだろうか。
 両腕の空いたミアはいそいそとソファを周り、遠慮もなくルチオに抱き締める。ルチオもそれなりに身長のある方だが、ミアもなかなかに背が高い。その為ミアがルチオを抱き締めると彼の顔がすっぽりと胸元に埋まってしまうのだ。

「あ、あの……ミアさん?」

 目を白黒とさせているルチオを他所に、ミアはルチオの銀髪をかき混ぜるように撫でる。

「やだ、貴方ってば少し痩せた? ちゃんと食べてるの? あら、こんなとこにも傷を付けちゃって!」

 体を離すと今度はペタペタと顔や腕に触れられ、身体チェックが始まる。そしてルチオの体や顔に傷や痣を見つけるとミアは憤慨したように眉を顰め、鞄から取り出した薬をルチオに塗り始めた。
 されるがままになりながら、チラリと一瞬だけルチオはヴァレンチーナに視線を向ける。こんなことをすればヴァレンチーナの怒りを不要に買ってしまうのではないかとハラハラしたが、彼女の意識は新品のシガーに向いているようだった。ルチオはホッと胸を撫で下ろす。

「そろそろ無くなると思って、新しい軟膏も持ってきたのよ。これは湿布で、こっちが痛み止めで……」

 ルチオを解放したミアは、今度は鞄の中から次々と薬品を取り出してはルチオに持たせていく。恐らく次元鞄の一種なのだろう。財布の一つしか入らなさそうな小さな鞄なのに、容量以上の物がどんどんと出てくる。

「……ミアさん、お伺いしても宜しいでしょうか」

「うん? 良いわよ」

 気楽にミアは頷く。
 これでも随分と甘い対応をして貰えているなという自負を、ルチオはしている。本来ならばまずアンダーボスであるミアに質問なんて出来ないし、そもそも彼女の前で口を開くことすら許されない存在なのだ。それだけ《親指》は階級と礼儀を重んじる組織であるということだし、如何に彼女の階級が高いか分かる。
 それらを不問にしてくれる程、ミアはルチオを気に入っている。目を掛けてくれている。
 だから、それに甘えてしまう。彼女の差し出す優しさを享受したくなってしまう。

「次は……何時頃お見えになりますか?」

 恐る恐るルチオが問えば、ううんと緩く首を捻ったミアは鞄から手帳を取り出し、予定を確かめ始める。

「そろそろ《指切り》が近いのよね……その後は西部のアンダーボスと会食で、その次は……北部に出張……ああ、工房の視察もあるの?」

 ミアが手帳のページを捲る度、ルチオの表情が沈んでいく。
 この分だと次に会えるのは数カ月後かも知れない。それまでこの苦痛に耐えないといけないのか? そう考えると、いっそ発狂でも出来たら楽なのに。
 けれど、出来ない。いつかヴァレンチーナをこの手て殺すまでは、それまでは――

「ルチオ」

 手帳を閉じ、しまったミアが両手でルチオの頬を包むと自分と目が合うように上向かせた。唐突のことで肩を跳ねさせたルチオだったが、視線の先でミアが柔らかく微笑むと肩の力を抜いた。
 陽だまりのように優しい、ミアの笑顔。それは抑圧され、凍りきってしまったルチオの心を溶かしていくようだった。

「指切り、しましょうか。私、きっと早く仕事を終わらせて貴方に会いに行くわ」

「……指切り?」

「そう、指切り。ほら、小指を出して」

 ルチオの頬から手を離したミアは右手の小指を立て、ルチオに差し出す。ルチオも倣って立てた小指を差し出せば、ミアがするりと小指同士を絡めてきた。
 結んだ小指同士をゆるゆると上下に振る。

「こうして指を絡めて、約束を違わないようにするの。だから《五本指》の会合も《指切り》って呼ばれてるのよ。はい、ゆーびきりげーんまん、嘘ついたら……うーん、何にしましょうね?」

 そこまで歌い、何にするか決めてなかったのだろう。はたと止まったミアは小さくクスクスと笑い、そして思いついたように付け足す。

「嘘ついたらルチオの言うこと何でも聞く、指切った!」

 結んだ小指を歌のリズムに合わせ、振り下ろす。結んだ時と同じような気軽さで解かれていく小指に一抹の寂しさを覚えたが、今はそれよりもミアが口ずさんだ歌詞だ。

「い、今のは……?」

「あら、嫌だった? 何でもお願いして良いのよ?」

 ルチオが眉を下げる。

「……困ってしまいます」

 そう、困惑してしまう。自分の願いなど口に出来ない人生を歩んできたのに、何かを願えだなんて。まるで小さい箱に大量の水を注ぎ入れているかのようだ。不釣り合いの大きな愛情が、次々に箱から溢れて流れていく。
 しかしミアは気にした素振りも見せない。何時ものように朗らかに笑い、ルチオの頭を撫でる。

「私は約束をちゃんと守る女よ? だから急いで仕事を片付けて来るから、少しだけ待っていてね? ……まあ、万が一の場合もしっかり考えておいた方が良いけれども」

 悪戯っぽく笑う。その笑顔に釣られるように、ルチオも僅かに口角を上げるのだった。

「お待ちしております。ミアさん」


2026/01/21

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