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其は齎されたアリアドネの意図

 ――一体何が、起きたのか。
 片腕が虫の腕をした男が、師匠であるヴァレンチーナの言葉にわなわなと体を震わせた後だった。
 一瞬で何倍にも膨れ上がる虫腕。それが真っ直ぐルチオへと向かって――
 ごほ、とルチオが噎せると口から粘性の高い液体が零れ出る。そうして視線を下げて、ようやく理解した。

 男の虫腕が、己の胸を貫いている。

 男の腕が振られ、ルチオの体が床に投げ出される。何やらヴァレンチーナの恫喝めいた声が聞こえたような気がしたが、どうにもよく聞こえない。
 命が潰える気配がする。明らかな致命傷だ。空いた胸からは止めどなく血が溢れ、目に見えて命がすり減っていくのが分かる。
 もう間もなく自分は死ぬだろう。その事実を認識し、ルチオは何処か安堵感を覚えた。
 やっと解放される。この地獄のような日々から。ヴァレンチーナから恫喝を受け、暴力を受ける日々が終わるのだ。それは少し嬉しいような気がして、ほう、と息を吐く。
 ――ああ、だけど。
 後悔が脳裏を過ぎる。投げ出されていた指に残った力を込め、悔恨を込めるようにルチオは床に爪を立てた。

『指切り、しましょうか。私、きっと早く仕事を終わらせて貴方に会いに行くわ』
『嘘ついたらルチオの言うこと何でも聞く、指切った!』

 陽だまりのような笑顔と、柔らかな声。それらが永劫に享受出来なくなるというのは、心にも穴が空いてしまったかのような欠落感と寂しさを覚えた。

 ――ミアさん。

「……っ、ごほ……」

 最愛の人の名を口にしようとする。しかし口から溢れてきた血によって阻まれてしまい、ヒュウと喘鳴のような空気しか出てこなかった。

 ――申し訳ありません。約束を破ることになってしまって。

 申し訳なさでいっぱいになる。ミアは約束を守る人だ。だから自分との約束を守ろうとして、今も何処かで仕事をしているのだろう。
 次にミアが《蜘蛛の巣》に来る時、もうこの場に自分は居ないだろう。巣そのものが無くなっているかも知れないし、ヴァレンチーナが新たな《教本》を用意しているのかも知れない。
 それは――今から死ぬ自分には分からないが。

 ――出来れば最後に、貴方にお会いしたかったです。

 叶わぬならば、せめて祈りだけでも。
 そしてどうか、彼女の行く末が幸多からんことを。それだけを願いながら、ルチオは来たるべき死に意識を手放した。



 ――暗く、冷たい場所に横たわっているなと感じる。まるで訓練で疲れ果てた時、ベッドにも行けぬまま床で倒れ尽きて眠ってしまった時のようだ。
 此処が死後の国なのだろうか。そう思っていると、ルチオは右手に仄かな温かさを覚えた。まるで誰かに手を取られ、体温を分け与えられている時のようだ。そう、例えば……ミアに触れられた時とか。
 死んでも尚彼女を想ってしまうなんて。我ながら凄い執着だなとルチオは呆れて笑う。けれど、それほどまでに慕っていたのだ。愛していたのだ。自分に救いを齎してくれた彼女のことを。
 温もりを確かめるように、ルチオは僅かに右手に力を込める。柔らかな温かさは、死しても尚ルチオを癒やしてくれているかのようだった。
 不意に、何かの音がした。綺麗な音だ。その音に誘われるようにルチオは薄く瞼を開けた。

「……ミアさん?」

 幻聴かも知れない。聞き間違いかも知れない。だけどその音は、自分の名を呼ぶ時のミアの声に似ていた気がした。綺麗でいて、聞いている此方がくすぐったくなってしまうような甘やかな声音。
 諦めきれない、と思った。もっと彼女の側に居たい。まだ彼女に感謝も想いを伝えられていない。
 ならば、起き上がるのだ。しっかりと目を開けたルチオは手に力を込めて起き上がり――


「……此処、は……」

 意識を取り戻したルチオが見たのは、知らない天井だった。どうやら何処かのベッドに寝かされているようだ。
 ゆっくりと起き上がり、部屋をぐるりと見回す。落ち着いた赤色を基調に金色が差し込まれた、とても上品な部屋だ。ざっと見回した限りだが置かれている調度品や小物はどれも品が良く、高級品だというのが見て取れる。
 部屋を見回した目で最後に右の傍らを見て――ルチオは息を呑んだ。
 ミアが、居る。椅子に腰掛け、すうすうと規則正しい寝息を立てている。

「っ……!?」

 驚いて思わず声が出そうになってしまったが、彼女を起こすわけにはいかない。どうにか耐えたルチオは代わりにバクバクと鳴る心臓をシャツの上から握り込んだ。
 握り込んで、ふと気付く。
 ――何故生きているのだろう。確かに心臓を貫かれて死んだ筈だったのに。この服だって普段着ている親指の服ではない。随分と清潔そうな、真っ白なシャツだ。
 すると、ミアが僅かに眉を寄せる。睫毛がふるりと震え、薄く瞼を持ち上げた。
 目が合う。驚きに見開かれたルチオの紫色の瞳と、ミアの青い瞳が交錯する。

「――ルチオ!?」

 大きく目を開き、椅子の背もたれから体を剥がして腰を浮かせたミアがルチオの両肩を掴んだ。
 ミアの視線がルチオの体や顔と、あちこちに飛ぶ。

「ああ、良かった! 大丈夫? 何処か痛いところはない? 違和感はないかしら?」

「い、いえ……問題ありません」

 されるがままにルチオがこくこくと頷けば、「良かった!」とミアが一気に破顔した。ルチオは顔に熱が集まるのを感じる。

「あの……何故僕は此処に居るのでしょうか」

 誤魔化すように、ルチオは気になっていたことを口にする。
 どうにも此処は《蜘蛛の巣》ではないようだ。如何なる《五本指》の廊下でもこのような部屋は見たことがない。
 「ああ、」と納得したミアはルチオの両肩から手を離し、再び椅子に腰を掛ける。ミアは余裕たっぷりに足を組み、

「蜘蛛の巣が壊滅したからよ」

 事も無げに、さらりと言ってのけた。
 一瞬、ルチオは彼女の言葉の意味が分からなかった。蜘蛛の巣が壊滅? あらゆる意図と思惑が絡まり合い、雁字搦めになっていた場所がそんなにあっさりと無くなってしまったというのか?
 ルチオが逃げ出したくても逃げ出せなかった場所が、あの恐ろしいヴァレンチーナや他の親方、子方たちが、皆死んでしまったというのだろうか。
 その事実を確かめるように、震える声でルチオは問いかける。

「師匠は……どうなりましたか」

「死んだわ」

 無感動にミアが口にする。その口ぶりはヴァレンチーナの死に対して何の感慨も抱いていないかのようだった。
 実際そうなのかも知れない。ミアは目を掛ける者にはとびきり甘く優しいが、それ以外の者に対しては無感動で冷淡だ。ミアの中でヴァレンチーナはその程度の人物だったのだろう。
 ルチオは視線を落とし、膝の上で拳を握る。ミアの話は本当だろう。しかしあのヴァレンチーナが死んだという事実をルチオは受け入れられずにいた。
 だってルチオの中でヴァレンチーナは絶対だった。絶対的な支配者として君臨し、彼女の言うことは白でも黒になった。
 殺すのならこの手でと思う夜は何度もあった。ヴァレンチーナが眠る度、刃を突き立てる想像を何度もした。それを阻んでいたのは、ひとえに裏路地から救ってくれたという恩義だった。
 それが、それが。こうもあっさりと死んでしまうなんて。ぼんやりと呆けていれば、いつの間にか強く握り込んでいた手をやんわりとミアに握られた。顔を上げれば柔和に微笑むミアが映る。

「蜘蛛の巣が襲撃されているって聞いて、直ぐに駆けつけたの。手持ちのアンプルがあったから貴方に使って……蘇生出来て良かったわ。本当に」

「……ミア、さん」

 触れた手が温かい。もしかして、ルチオが眠っている間もこうして触れていてくれたのだろうか。
 彼女に報いたい。しかし蜘蛛の巣が無くなった今、ルチオは《親指》であれど《親指》ではない人間となっていた。誰かの部下でなければ明確な階級も持たない、曖昧な立場。ミアに報いる術を今のルチオは持ち合わせていなかった。
 もしかしたら裏路地に戻ることになるのだろうか。あの救いも希望もない場所へ。
 嫌だ。彼女の側に居たい。この手を離したくはない。グッと唇を噛んでいると、少し考え込んだミアがゆったりと切り出した。

「……ね、ルチオ。貴方はどうしたいかしら?」

「僕……ですか?」

 ミアが頷く。

「ええ。貴方はこれで何処にでも行けるわ。私が支援してあげるから新しい場所で新しいことを始めてもいいし、蜘蛛の巣に戻りたいって言うなら戻ってもいい。親指に所属していたいというなら、ソルダートからになるだろうけれど――」

「貴方の」

 ミアの言葉を遮る。無礼だと思われただろうか。
 それでも彼女は気を悪くする素振りすら見せず、ただただ驚いたようにぱちぱちと目を瞬かせただけだった。
 生気の灯らなかったルチオの瞳に、今一度光が差し込む。

「貴方のお側に、置いてください」

 ベッドから出たルチオは足を床に下ろし、ミアと向き合うと深々と頭を下げる。
 ミアは思案しているのだろうか。沈黙が二人の間に下る。時間にしてみれば数十秒程だったのかも知れないが、今のルチオにとっては永遠のような時間に感じられた。

「……ルチオ」

 穏やかな声音で名を呼ばれる。恐る恐る頭を上げた先、そこではミアが柔らかく微笑んでいた。
 穏やかな陽だまりみたいな、ルチオが一等好きなミアの表情だ。

「貴方が望むのなら、私は歓迎するわ。けど私は厳しいわよ? ついて来られるかしら」

「食らいついてみせます」

 ルチオの返事に満足そうにミアは笑うと、彼の銀髪を優しく撫でてから立ち上がった。もう行ってしまうのだろうか。

「それじゃ、貴方を迎える準備をしなきゃね。新しい服を仕立てないといけないし、部屋も用意しないと。また来るから、それまでちゃんと療養するのよ?」

 はい、とミアが小指を立てた手をルチオに差し出す。その意図を理解し、小さく微笑んだルチオも小指を立て、ミアのものに絡ませた。

「またね、ルチオ」

 指を切る。約束を重ねる。
 差し出された救いの糸が、二度と解けないように。


2026/02/06

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