幼稚な言葉で囁くよ

※20話時点で書いたものです。


『ねえ、エラン。これなんだけど――』
『エランってば』
『あんたねぇ……! つまみ食いするんならあんたの夕食の分減らすからね!』


「ねぇ、君ってば僕の本名とか気にならないの?」

 机に置かれたマグカップをつつきながら、かつては《エラン》と呼ばれた少年――強化人士5号がリーセリットへ声を投げる。机の反対側の席に座ったリーセリットは「今更?」とでも言うように片眉を上げながらも手元のマグカップを口へ運んだ。中身はどちらともインスタントコーヒーだ。
 紆余曲折を経て《ラスタバン》の家名も地位も、全てを捨てたリーセリットを連れて地球の片隅で暮らし始めてそれなりの月日が経った。
 お嬢様……それも宇宙でトップクラスに入る企業の社長令嬢であったリーセリットがアーシアンの一般家庭へと急に生活のランクを落として耐えられるのだろうか、堪えきれなくて数日で文句を言い出すかもなとエランは考えていたのだが、予想に反してリーセリットは順応して行き、今となってはある程度の家事炊事もこなせるようになっていた。料理の腕も悪くない。
 それ程の月日が経っている。それ程の月日を共にしている。
 しかし――一向にリーセリットは《エラン》の本名を訊ねてくる気配がないのだ。いつまで経っても「エラン」か「あんた」呼び。別に構わないのだが、返事はするのだが……此処まで来ると気にならないのかと逆に聞いてみたくなってしまう気持ちもあり。

「え、今更聞くんだそれ」

「君が一向に聞かないからだろ」

 ふん、と鼻を鳴らせば「嫌なとこばっか本人に似て……」とブツブツ文句を言いながらリーセリットはコーヒーに口を付けた。
 リーセリットは机に置いてあるお菓子のカゴへと手を伸ばし、取り出したクッキーを頬張ってから口を開く。

「まあ……気にならないって言えば嘘になるけど、無理やり聞き出したいワケじゃないし」

 二つ目のクッキーを齧り、片手で頬杖を付く。
 彼の本名は気になると言えば気になるし、どんな過去を送ってきたのかだって知りたい。それが彼の人となりを作ったのだから。
 しかし、だからと言って無理に聞き出す気にはなれなかった。話したくないのなら話さなくて良いし、気が向いたら教えてくれれば良い。それがリーセリットのスタンスだった。
 4号に対しても、5号に対しても。

「……ふーん」

 エランは後頭部で手を組み、背もたれに深く背を預けて足を組む。赤の他人だと言うのにその一連の動作は非常に本物とよく似ていて。性質が似通っていなければ影武者なんて出来ないのだろうかと思ってしまう。

「……君ってさ、存外僕の事好きだよね」

「嫌いじゃない、の間違いでしょ」

 両手で頬杖を付いたエランはリーセリットの顔を覗き込むように小首を傾げ、微笑んで見せる。
 
「じゃあさ、僕が老衰で死ぬ間際になったら教えてあげるよ。本当の名前」

「あーはいはい。勝手に言ってなさいよ」

 ニヤニヤと笑うエランをあしらうようにリーセリットは手で払う仕草をする。
 嫌いならば共に地球まで来ていないのに。彼女の愛情表現は言葉ではなく行動だななんて思いながらエランはマグカップを傾けた。
 何も入れていない筈のブラックコーヒーは、何処か仄かに甘い気がして。 


2023/06/11