正しくない感情の墓場
生徒達が次第に寝床に横たわる頃合い。ライトの光量が絞られて薄暗くなったペイル寮の廊下を静かにリーセリットは歩いていた。
目的地はリーセリットの自室からそう遠くない。人気の失せた廊下を歩き進み、一つの扉のまでやって来たリーセリットは足を止め、生徒手帳を翳した。ピッと機械的な音と共にロックが解除される。センサーが働いて扉がスライドし、部屋の照明が点いて室内を明るく照らした。
静かに入室して周りを見回す。
ベッドとデスク、タンス以外には備え付けの設備が見当たらない、非常に殺風景な部屋だ。あらゆる『個人』が拭い去られたようなこの部屋は当然リーセリットの自室ではない。
――エランの部屋。リーセリットに黙って《処分》されてしまった、四番目の彼の部屋。
つい、と頭を動かしてデスクへと視線を向ける。
デスクの上。そこには現代においては貴重品となったハードカバーの小説が何冊か並べられており、そこだけが唯一エランが居たという痕跡を残していた。
背表紙を眺める。前にエランから一冊借りて読んだことがあったが、彼が好む哲学書の類はリーセリットにとっては大分難解な内容だった。分からない部分を聞いていれば、エランは答えてくれただろうか。
……答えてくれた、と思う。彼はいつだって冷静沈着な態度だったけど、優しかったから。
「……」
デスクから視線を外し、フラフラと誘われるようにベッドへと向かう。その端に腰掛け、倒れるようにベッドへ身体を沈めた。ごろりと横向きになれば真っ白なシーツは頬に触れる。
息を吸い込めば清潔な、洗濯がし終わったばかりの香りがする。少しもエランの香りがしないことに一抹の寂しさを覚え、リーセリットは瞼を閉じた。
今は数少ない痕跡を残すこの部屋も、もう少しすれば新しい入居者の色に染まってしまうのだろう。――五番目の彼。天使みたいな笑顔で悪魔みたいな囁きをする、新しいエランによって。
彼は「最終調整があるから」なんて気軽い口調でペイル社へと戻っていったが、上手くやっていける自信が全くない。彼が戻ってきた時に果たして今まで通りの《エラン・ケレスの婚約者》として振る舞えるかどうか不安でしかないし、そう振るわなければならない事実に気が滅入ってしまう。
はあ、と嘆息する。体が重い。
「…………会いたいよ、エラン」
叶わない願いはがらんどうの部屋に吸収されてく。せめて夢の中でくらいは会えないかな、なんて思いながらリーセリットは微睡みかける。
その時だった。
「嬉しいなぁ。君にそこまで言ってもらえるなんて」
静寂を破り、沈みかけていたリーセリットの意識を引き上げたのは飄軽とした声だった。
瞼を持ち上げるのも億劫だ。リーセリットが何の反応も示さずにいれば足音が近付いてくる音がし、次いで僅かな振動と共にベッドが軋む音がする。
「こんな時間に僕の部屋へ来てくれるだなんて、これは期待しても良いのかな?」
「……あんた、戻って来るのはもう少し先じゃなかったの」
予定では此方に戻って来るのは数日先だと聞いていた。なのにどうしてもう帰ってきているのか。薄目を開けてチラリと様子を伺ってみれば、リーセリットの傍らに腰を掛けて楽しげに自分を見下ろしているエランと目が合った。視線が交われば、心底嬉しそうに目を細められる。
やめて。エランはそんな顔をしない。そんな風に微笑まない。あんたじゃない。
「君が恋しいだろうと思ってね、急ぎで終わらせたのさ。そうしたら、ほら」
エランはシーツの上に無造作に散らばっているリーセリットの髪を一束手に取ると、口付けを落とす。絵に描いたような『リップサービス』をリーセリットは興味がないと言いたげに一瞥だけすると、エランに背を向けて瞳を閉じた。足をパタパタと動かして雑にローファーを履き捨て、いよいよ眠る体勢を取る。
あんたが何をしようと関係ない。そんなリーセリットの釣れない態度に髪を離したエランはやれやれと肩を竦めると、両手をベッドに付いてリーセリットを観察する。余程『前任者』に入れ込んでいたみたいだから自分に対する態度が素っ気ないだろうと踏んでいたが、まさか此処までとは。
まあでも。エランは笑みを含む。
何事も簡単に攻略してしまうのは面白くない。少し難しくて、手応えのある方が落とした時の達成感や楽しさが増すのだから。
「リーセリット」
名を呼ぶ。当然反応はない。そんな彼女を試すように、一つ笑みを零したエランはリーセリットに覆い被さった。身を寄せ、リーセリットの耳元に口を寄せるとからかうように囁く。
「ねえ、《前の僕》とはどこまでしたの?」
優しく頬を撫でる。ぴくり、と僅かにリーセリットの睫毛が揺れた。
「抱き合った? 流石にキスまでは進んでいるよね」
此方を煽るような言葉に堪らずリーセリットが瞼を持ち上げてエランを横目で睨みつければ、リーセリットから身体を離して楽しげに唇を釣り上げているエランと目が合った。
頬を撫でていた手が肩へと滑り落ち、掴んだかと思うとぐいとリーセリットの身体をベッドへと押す。リーセリットの視界に映るのは天使の如き微笑みを湛えているエランと、その背後に広がる無機質な天井だけだ。
「ちょっと……」
不愉快そうに眉根を寄せ、止めて、と言いかけた口を遮るようにエランが続ける。
「それとも――それ以上のこともしたのかな? あいつは君の身体のどこまで触れたの? どこまで知ってるの?」
肩を掴んでいた手が更に下へ降り、リーセリットの腰へと触れる。すり、と艶めかしく撫でればリーセリットの身体はぴくりと震えた。強く睨みつけてもエランは素知らぬ顔だ。
「何であんたにそんなことまで言わなくちゃいけないの?」
「それは勿論、君が『初めて』だったら優しくしないといけないだろう?」
「なっ……!」
リーセリットの顔が羞恥に赤く染まる。まさか、このまま事に運ぼうをしているのか。それだけは嫌だ、とリーセリットはエランの胸板を押して退けようとする。
そういった行為は『本物』のエランとするものかと思っていた。自分たちは決められた婚約関係であり、いずれはペイル・グレードがそうだと定めた優秀な子を成すことがこの婚約の目的なのだから。
でも、するのならエランが良いと願っていた。リーセリットが一目惚れした人で、一番大事な人で、一番好きな人だから。
だから、だから――決して目の前の男ではない。
エランの胸板を押す手へ更に力を込める。そんな細やかな抵抗すら愛おしいと言わんばかりにエランはくすりと笑い、口を開く。
「ねえ、どうしたい? 君が望むようにしてあげるよ。愛を囁いてほしい? 一等大事な婚約者として振る舞ってほしい? 君の好きな顔で、優しく抱いてほしい?」
天使のような柔らかい笑みから放たれる悪魔の如き甘言など一蹴してしまえば良いだけなのに、リーセリットはそれを拒めなかった。心の一番柔らかいところ、誰にも触れられないようにしていた場所。その場所にあまりに深く、鋭利にエランの言葉が突き刺さる。
リーセリットが望んでいたことを、この男は叶えてあげると言っているのだ。その言葉は蜜のように甘く、どろりとリーセリットに絡みついてくる。
胸板を押していた手の力が弱まる。その隙を見逃さず、リーセリットの手首を取ったエランはその手をベッドへと縫い付けた。
今にも泣き出しそうな表情のリーセリットの顔が映る。安堵させるようにエランはリーセリットの手首を離すと、その手で優しく頬を撫でてやった。
「君は僕を拒めない。――そうだろう?」
とびきり優しく、甘く囁きかける。僅かな隙を突いてこじ開けるように。
するり、とエランの手が伸びてきてリーセリットの服の中へと侵入してくる。ぴくりとリーセリットの身体が震えたが、拒まれはしなかった。
「さあ、目を閉じて。僕に身を委ねて」
やり場のない感情も、やるせない想いも、全てぶつけてくれて構わない。
僕がその感情の墓場になってあげるから。
そうして《あいつ》の痕跡を全て埋めて、僕だけを見てくれればいい。