夜明けのタフタと六ペンスの星
――夢を見る。見覚えのない真っ白な廊下がずっと伸びていて、近くの窓の外を見やれば一面の星空が広がっている。
星空、とは少し違うかも知れない。窓の上部分だけでなく全面が星で埋め尽くされてる様子は、まるで宇宙船か何かに乗っているみたいだった。
場所は兎も角。廊下の先にはこれまた見慣れない制服のようなものを着て私に背を向けているエランが居て、その姿を認めて嫌な胸騒ぎを覚えた私は声を張り上げて彼の名を呼ぶ。
「エラン、待って!」
何から? 分からない。
けど、行かせてはならない気がした。エランを引き止めないと、きっと後悔する。
エランは振り向かない。私の声なんて気付いていないかのように歩いて去ろうとする。
お願い、行かないで。行ったらエランは――……。
「行かないで! エラン!」
駆け出す。だけど私とエランの間の距離が億光年でもなったみたいに走っても走っても埋まらず、そればかりかどんどんエランとの距離は空いていく。姿が小さくなっていく。
涙が溢れて伝ってくるが、それを拭ってる暇なんてない。私は少しでも距離を埋めようとして――
「待って――!」
掛け布団を跳ね除け、勢い良く起きる。バクバクと忙しなく鳴る心臓を押さえながら、リーセリットは呼吸を整えようと大きく息を吸い込んだ。
嫌な夢を見た。詳細はおぼろげで不明瞭だけど、一番大事な存在であるエランが自分の元から去っていく夢だったように思う。
あのまま引き留められなかったら、どうなっていたのだろうか。それは分からないけど途轍もなく……本当に恐ろしいくらいに嫌な予感だけは感じた。まるで永遠に会えなくなってしまうかのように。
そんなことはない、とリーセリットは軽く頭を振る。そもそも、あんな宇宙船みたいな場所に居たのも見慣れない制服を着ていたのもおかしいのだ。自分たちは日本にある《神奈川アスティカシア高等専門学園》に通ういち生徒であって、あんなヘンテコな場所で学生をしてるわけではないのに。
エランにだって……一番大好きで大切な婚約者にだって、会おうと思えば会えるのだから。毎日会話して、毎日「おはよう」と「おやすみ」を言えるんだから。何も心配しなくったって良いのに。
まあ、夢なんて大体が荒唐無稽な内容だ。そんなことを考えていれば次第に鼓動も呼吸も落ち着きを取り戻してきた。そこでリーセリットはようやく室内が薄暗いことに気付き、ベッド脇のサイドテーブルに置いてあるスマートフォンに手を伸ばし、時間を確認する。四時五十分。
「早すぎ……」
幾ら何でも起床するには早すぎる。もう一度眠りに付こうと一旦は横になるが、幾らゴロゴロと寝返りを打っても寝付けそうになく、リーセリットは掛け布団を蹴っ飛ばして起きた。駄目だ、完全に目が冴えてしまっている。
仕方がない、と軽く身支度を整えたリーセリットは寝巻きの上から薄手のカーディガンを羽織り、サンダルを引っ掛け、スマートフォンだけを持って寮の自室を抜け出した。少し歩けば気分も紛れるだろう。
静かに廊下を歩き、寮を出る。春先の朝方らしい、少し冷え冷えとした空気を肌で感じてリーセリットはカーディガンをしっかりと羽織り直した。
何処へ行こうかと考え、少し考えたリーセリットは寮の敷地内が海に面していることを思い出した。少し歩いて森林エリアを抜ける必要があるが、気分を紛らわせるにはうってつけだろう。道順の記憶を辿りながらリーセリットは森林エリアに伸びる歩道を歩いて海岸線へと向かう。
向かう最中で見かけた自販機で適当にお茶を買い、それに口を付けながら歩き進める。数分もしない内に木々を抜けて塩辛さを含んだ風が吹き抜けてきて、足元もレンガ調の歩道から柔らかな砂地へと変わっていく。寄せては返すの静かな波の音が心地良い。
森を抜ける。鬱蒼とした視界が一気に開け、一面の青がリーセリットの視界に広がった。
朝焼けが近い。まだまだ周囲一体は薄暗い緞帳が空一面を覆っているが、遠い海の向こうは少しずつ白み始めている。
砂浜を踏み、海へと近付く。波しぶきを被らない程度まで近付いたところで近くに流木が流れ着いていることに気付き、リーセリットはそこに腰を下ろした。ちびちびとお茶の入ったペットボトルを傾けながら、ぼんやりと波の満ち引きを眺める。
まだ先程の悪夢を引き摺っている。忘れようと努める度に悪夢はリーセリットの脳裏を爪で掻き、存在の主張を続けてくるのだ。
リーセリットはペットボトルを片手に持ちながら膝を抱えると顔を伏せる。
……もしも、もしもの話だ。エランが居なくなってしまったらどうしよう。自分に愛想が尽きてしまったらどうしよう。そう考えるだけで呼吸の仕方を忘れてしまったかのように息が苦しくなり、指先が冷たくなっていくような感覚を覚える。
怖い。エランが側から居なくなってしまうことが。恐怖に耐えるようにぎゅっと身を縮こまらせていると、不意に誰かが砂浜を踏む音がした。
涼やかな声が降ってくる。
「……リーセリット?」
「わっ!?」
予想外のその声に、思わずリーセリットはペットボトルを取り落としそうになってしまう。誰も居ないと思っていただけに唐突に名を呼ばれたことにも心臓が跳ねる程に驚いたが、その声が今まさに想っていた者の声なのだから更に驚いてしまう。
振り返る。そこには制服のスラックスにワイシャツと、普段より幾分かはラフな格好をしたエランが立っていた。
「エ、エラン!? どうしたの!?」
慌てて振り返って見上げる。夜の海のように静かな瞳が、リーセリットを捉えていた。
「偶然目が覚めたから外を見ていたら、君が寮を出ていく姿が見えたんだ」
そう、偶然だった。何となく目が覚めて窓の方へと視線を向けると、寮の外に向かうリーセリットの姿を見つけたのだ。
こんな朝方にも関わらずに。もしこんな時間に一人で寮の敷地外に出れば危険を伴う可能性だってある。此処はリーセリットの実家のように常にSPが目を光らせている場所ではないのだ。
思案したエランは、少しだけ様子を見ようかと考えた。敷地外へ出るのなら呼び止めれば良いし、この辺を出歩く程度だったのなら戻ればいい。そうして追いかけて辿り着いた先。敷地内の海岸で一人佇むリーセリットを見かけ、エランは声を掛けた。そんな必要はなかったのにだ。
無事は確認出来たし、敷地内であれば不審者が現れる可能性もない。様子だけ見て立ち去れば良かったのに声を掛けてしまったのはきっと――太陽が雲で隠れてしまうように、普段は明るいリーセリットがどうにも消え入りそうな雰囲気を纏っていたからだろうか。
馬鹿馬鹿しい。そんな筈がないのに。エランにとってリーセリットとは眩く輝く太陽のように輝いていて――たまに此方が嫌と思う程に照らしてくる存在だ。手を伸ばせば触れられる距離にいつだって居るのだから、居なくなると思う方がおかしいのに。
けれど既に遅い。エランの声掛けに驚いた様子のリーセリットは振り返り、エランを見上げている。目をぱちぱちと瞬かせたリーセリットは申し訳なさそうに眉を下げ、取り繕うように笑みを浮かべた。
「……ごめんね、エラン。心配掛けちゃったよね」
「……何かあったの?」
エランが小首を傾げれば、まさかと言うようにリーセリットはペットボトルを持っていない手を横に振るう。
「違うよ! 私もたまたま目が覚めちゃったんだけど寝付けなくてさ、少し歩こうかなって思ったの。だから、」
声が震える。駄目だ、平常心を取り繕わないといけないのに。
鼻の奥がツンとしてくる。涙声を悟られないようにリーセリットがわざと言葉を区切って俯けば、傍らにしゃがみ込む気配がした。エランが側まで来て屈んでくれているのだろう。
「リーセリット?」
「っ、本当に、なんでもないの。大丈夫だよ」
優しく、慮る声がしてくる。
駄目だ。そんな風に優しくされると耐えられなくなってしまうのに。滲んできた涙をこそりと拭ったリーセリットはいやいやと首を振る。
「本当に何もない人は、そんな風に泣いたりしないと思うけど」
「っ……」
エランの指摘にそろりと顔を上げる。叱られるのが分かっている子供みたいに。
けれど、上げた視界の先で待っていたのは静かな表情でリーセリットを見つめているエランだった。
馬鹿みたいだと思われるだろうか。悪夢なんか見たから寝付けないなんて。ああでも、エランはこうしてリーセリットの次の言葉を待っていてくれている。寄り添ってくれている。
だったら、話してみてもいいだろう。少し逡巡し、リーセリットはぽつりと口を開いた。
「……夢を見たの。そこで私とエランはこの学園のじゃない制服を着て、宇宙船みたいなところに居てね……」
リーセリットは膝の腕で手を強く握り込む。
「エランが……エランがね、遠くに行こうとするの。どんなに呼び止めても駄目で、追いかけても追いつけなくて」
パタ、と握った拳に涙が落ちる。
「離れたら……もう二度と会えないって分かったの。永遠に。だけど私はエランが離れてくのを見守るしか出来なくって……」
「リーセリット」
頬に手が添えられる。はたと言葉を止めてエランと目線を合わせれば、目尻に溜まった涙を指の腹で拭われた。
「……僕は此処に居るよ、リーセリット」
触れている頬を撫でる。普段身に付けている手袋を今は外しているから、エランの体温はしっかりとリーセリットに伝わっている筈だ。
存在を確かめるように触れる。リーセリットに。
名を呼べば、握り込んでいた手を解いたリーセリットは縋るようにエランへ手を伸ばし、控えめにワイシャツの裾を握った。
「……エラン」
「うん」
「エラン」
リーセリットの頬から手を離し、肩に触れて軽く引き寄せる。
抵抗はなかった。大人しくエランの腕の中に収まったリーセリットの体を優しく抱き締めれば、すんと小さく鼻を啜る音が聞こえた。
少しして、エランの様子を窺うような慎重さでリーセリットの腕がそろりとエランの背に回される。
「僕は君の婚約者で、恋人だ。君を置いて何処かへ行くつもりもないし、離れる予定もない」
静かな声音で言い聞かせる。だからどうか安心してくれと。
沈黙が下り、波の音だけが場を支配する。暫くしてエランの胸元に頭を預けたリーセリットが小さく呟いた。
「……ね、エラン」
エランの背に回る腕に、僅かに力が篭る。
「……絶対、離れないでね。ずっとずっと、側にいてね」
違わない約束を取り決めるかのように、リーセリットはそっと呟く。それに答えるようにエランは抱き締める力を込めた。
腕に力を込める。波間に捕らわれてしまわないように。