頬に落ちるすべての雨
淀みなくキーボードを叩き、リーセリットは資料を作成していく。これは次にグエルとの仕事で使う資料だ。
過去のデータとにらめっこし、グラフを作成し、如何にジェターク社のMSがこの事業において適切であるかをアピールしていく。気付けばキーボードを叩く指に力が入り、ダカダカと物凄い音を発している。パソコンを乗せている机もその動きに合わせてガタガタと僅かに揺れていた。
それもこれも、全部あいつのせいだ。エラン・ケレス。リーセリットの元・婚約者。ブリオン社にヘッドハンティングされていったエランは辣腕を余すことなく発揮しており、その脅威は現在リーセリット達ジェターク社に向けられていた。
負けた。前回のコンペで。選ばれる自信があっただけに悔しさも半端ない。
それに加えて、コンペを勝ち取った時のエランの顔ときたら! あの勝ち誇った表情は今思い出しても本当に腹が立つ。
その悔しさをキーボードにぶつけていれば、不意に背後から抱き締められてリーセリットの指が止まった。
平時よりも幾分か高い体温がじんわりと伝わってくる。更に頭上からポタポタと水が垂れてキーボードの上に落ち、リーセリットは慌てて水滴が落ちないように手を広げてキーボードを隠した。
「ちょっと、水滴が落ちるんだけど」
不機嫌さを隠そうともせずリーセリットが真上を向けば、薄緑の長い髪がさらりと落ち、まるでカーテンのようにリーセリットの顔の周りを覆う。僅かに濡れているのは彼が今しがたまで入浴していたからだろう。ロクに髪も乾かさずに出てきたらしい。
リーセリットを背後から抱き締めた当の本人……首にタオルを掛けているエランはと言えば、その整った柳眉を寄せて、こちらもこちらで不機嫌さを隠そうともしない表情を浮かべていた。
何、と続けて問えば不貞腐れたような声が降ってくる。
「僕よりも仕事に集中してるの?」
「別に。ただ次のコンペは絶対負けたくないってだけ」
へぇ、とエランは素っ気なく返事をし、リーセリットの頭にスリと頬を寄せた。
というか、エランは何時まで抱き締めているのだろう。彼の高い温度が移って来そうだ。髪から滴る水滴も気になって仕方ない。
「髪、きちんと拭いてから出てきなさいよ」
「君が拭いてよ」
「えぇー……」
リーセリットは呆れたように眉を下げた。それでもエランは一歩も引かない様子だ。
仕方ないと一つ息を吐いたリーセリットは作業を保存するとエランの肩を軽く叩いて「ソファに行って」と告げ、椅子を引いて立ち上がる。
先にソファに着いたエランが腰掛け、その隣にリーセリットが腰を下ろす。直ぐ様エランが腰を捻ってリーセリットに背を向けてきて、リーセリットは呆れて少し笑いながらも彼が首に掛けているタオルを手に取り、未だに水滴の滴る髪を拭き始めた。
タオルでエランの髪を挟み、ポンポンと軽く叩いて水気を取っていく。黙々と拭きながら、随分髪が伸びたなあとリーセリットは思う。
まあ、長い髪も彼に似合っている。象徴のようでもあった双角錐型のピアスも外して久しく、耳たぶの穴は大分塞ぎつつあった。
エランであって、エランではなくなった彼。名は相変わらず拝借しつつもすっかり別人の様相になったなと思案に耽っていれば、いつの間にか手が止まっていたのだろう。「ねぇ」と不機嫌そうにエランが肩越しに振り返った。
「手、止まってるけど」
ハッとし、リーセリットは再びエランの髪を乾かし始める。
「ああ、ごめん……って、だったら自分で拭けば良いでしょ!」
咄嗟に謝ってしまったが、そもそもエランに請われて代わりに髪を拭いてやっているのだ。文句を言うのなら最初から自分でやれば良いのに。
エランが此方に体重を掛けてきて、リーセリットは咄嗟に受け止める。本気で寄りかかって来ているわけではないので重たくはないのだが、髪を拭くにはかなり邪魔だ。
「エラン、重たいんだけど」
「君に甘えてるって分からない?」
少しつっけんどんに言い返される。その言葉にリーセリットはぱちくりと目を瞬かせ、小さく吹き出した。
エランの肩をポンと叩き、僅かに力を込めて押し返す。ゆるゆると上体を戻したエランは振り返り、不服そうにリーセリットを見やる。
リーセリットは悪戯っぽく笑い、
「ほら、残りはドライヤーで乾かしてきちゃって。そしたらコーヒーでも煎れてあげるから、たまにはゆっくりしよっか」
確かに、思えば此処最近ずっと資料作りに勤しんでいてエランに構っていられてなかったかも知れない。……こう言うと、まるで大きな猫でも飼っているみたいだ。
随分と分かり辛い甘え方をしてくる大きな猫も、それで気分が幾分か上向きになったのだろう。「仕方ないな」なんて言いながらも嬉しそうにしてバスルームへと向かった。
バスルームへ消えていく間際。立ち止まったエランが肩越しに振り返る。
「ってことは、今日はこの後の時間を僕にくれるってことだよね?」
リーセリットが緩く首を傾げる。
「まあ……そうなるのかな」
折角だ。今日くらいはこのまま就寝までエランとのんびりしても良いし、明日は何処かに二人で出かけたって良い。そんなことを考えているとエランが柔和にニコリと微笑んだ。その天使のような笑顔を受けて、リーセリットの背に嫌な予感が伝う。エランがこういう笑顔をする時、大抵リーセリットにとって不利益なことが起きるのだ。
思わず見とれてしまう程の笑顔で、エランが言葉を続ける。
「今晩は寝れないと思ってね」
とびきり優しい声で言い残し、エランの姿がバスルームへ消えていく。
ぽかんと面食らったリーセリットだったが、一拍置くと盛大に溜め息を吐き出した。
……明日、外出の予定は無理かも知れない。