悪夢も翳る君の手で

※何となく前話の続きもの。





 暗い。昏い。闇い。
 どこをどう見回してみてもそこは闇一色だった。その闇は絶望の怨嗟を吐き出し続けており、若者にも、老人にも聞こえる様々な声で周りに呪いの言葉を唱え続けている。

 ヒトを許すな。
 ヒトを殺せ。
 そうだ、殺せ。
 殺せ、殺せ、殺せ、殺せ殺せ殺せ。

「なんなんだコレは……」

 泥濘のような闇の中に立つルフレが狼狽える。闇はヒトを殺せ、根絶やしにしろと延々に呟き続けているのだ。
 正体が分からない。しかしふとその存在を――右手の事を思い出し、ルフレは右手を目の高さまで掲げた。右手の甲。ここには邪竜ギムレーとの繋がりを意味する邪痕が刻まれている。これを宿した子が産まれるまで何百年もかかった、とは前にインバースから言われた事だったか。
 もしかして、これは今も封印されているギムレーの怨嗟の声なのだろうか?この悍ましくも空虚なこの怨嗟が。

 きっと立て続けの行軍やら軍務で疲れているからこんな変な夢を見るんだ。ルフレは右手を下ろして目を瞑り、呻く声から目を背けて考えも切り替える。
 その瞬間だった、両手が何かドロリとした『何か』に触れたのは。慌てて目を開けて視線を落とせば、そこは怨嗟の沼地なんかではなく冷たい石畳の上で。自分はその場で片膝を付いて『誰か』を抱えている。
 前髪が垂れていて『誰か』の顔が伺えない。いや、これはきっと見たくないだけだ。顔を見てしまえば現実と向き合ってしまう事になる。嫌でも『ソレ』を認識し、受け入れなくてはならない。
 しかして覚悟を決めたルフレは震える指先でその人物の顔に掛かっている前髪を払い退け――受け入れ難い絶望に、喉を引き攣らせた。

ヒンメル!? どうして……なんで!!」

 最愛の相手の、血に塗れながらも穏やかな顔がそこにあった。
 揺り動かしても、名前を呼んでも返事はない。まるで糸の切れた人形のようにヒンメルはぐったりとしたままで。
 ヒンメルが血のついた短剣を握っていることに気付く。首元の出血が酷い様子からして、ヒンメルは自害を選んだのだろうというのだけは分かった。
 しかし、何故。そう思っていると、暗闇の中にクツクツとした笑い声が鳴り響いた。咄嗟にルフレはヒンメル『だったモノ』を強く抱きしめると、その笑い声は更に増す。

「全く、人間とは愚かだね。人質なのだから自分は助かるというのに、ヒンメルはそんなものは願い下げだと自殺してしまったよ」

「お前は……っ!」

 暗闇から現れた人物は自身と同じ顔をしたギムレーであり。ギリ、と奥歯を噛んでルフレはギムレーを睨む。
 しかしギムレーは臆することもなく肩を竦めた。

「これは紛れもなく、ここではない何処かの世界で起きた事だ。ヒンメルを人質にクロム達を祭壇に呼び出し、クロム達を殺す。そういう手筈だったのだが……先ほど言った通り、彼女は自害した」

 だから、とギムレーは続ける。まるで命令するかのように、硬い声で。

「お前は『僕』のようにならないでほしい。彼女を、きっと守ってくれ」

 あの身体は既に『ルフレ』のモノではなく『ギムレー』の器であり、精神としてのルフレも消えてしまっているのだろう。完全なる邪竜の器。それでも。

 ――それでも、ほんのひと握りの『ルフレ』としての魂が、意志が、欠片でも残されていたのかもしれない。

 ルフレが彼の声に力強く頷けば、それに満足したように周りの暗闇も、ヒンメルの死体も手の内から消え失せてしまった。
 次に知覚したのは、暖炉の中でパチパチと爆ぜる火の音。それとドアの開く音がして、執務中に寝入ってしまったかと気付いたルフレは起き上がると上半身を伸ばす。

「あはは、やっぱり寝てた。お疲れ様、ルフレ」

 そんな明るいヒンメルの声と共に、机の片隅にマグカップが一つ置かれた。温かく、甘いミルクの匂いが漂ってくるのが分かる。
 ああ、現実に戻ってきたのだなと改めて実感する。安堵しながらルフレは傍らに立っているヒンメルを見上げた。

「……? どうしたの、ルフレ。私に何か付いてる?」

「えっ? あ……」

 きょとんとした様子でヒンメルはルフレの顔を覗き込んでくる。まさか夢見の悪さと、現実のヒンメルの様子の違いに戸惑ってるとは言えまい。
 しかし。ルフレはヒンメルの名を呼んでしゃがんでもらうとヒンメルを抱き締めた。

「ル、ルフレ……?」

 幾ら恋人と言えど、急にこんな事をされれば戸惑ってしまう。腕を伸ばして抱き締め返そうとしたヒンメルは、ルフレが僅かに震えている事に気付いた。その背を優しく撫でていると、ポツリとルフレが呟いた。

「……ヒンメル

「うん」

「僕は邪竜ギムレーの器となる者だ。その資格である邪痕を持つ者だ」

「うん」

「今はなんとも無い。だけどもしかしたら僕がギムレーに乗っ取られて、クロムやヒンメル達を殺してしまう日が来てしまうかも知れない」

「うん、もしかしたらそんな未来が来ちゃうかも知れないね」

 穏やかに相槌を打っていく。
 だけどそんな事、とっくに承知の事案だ。ヒンメルはルフレと結婚する前、二人きりの時にそう言われた記憶がある。だから、僕との結婚はきちんと考えてくれとも言われた覚えもある。

「私は今のルフレが好きって言ったでしょ? だからもしルフレがギムレーに飲まれても、私達が助け出す」

 その時も、こうやって言った気がする。ぶん殴ってでも絶対助け出すと。救い出してみせると。そう言い切った時のルフレの顔は忘れられそうにない。泣き出しそうで、でも心の底から嬉しそうにくしゃりと顔を歪めて笑った事を。
 ぽんぽんとルフレの背中を叩き、彼から身を離したヒンメルはにかっと笑う。

「よし、今日の執務終わり! そのホットミルク飲んだら一緒に寝よっか」

 立ち上がり、執務机の上に置かれていた書類をさっさと片付け始める。有無を言わせない片付けの速さにルフレは目を瞬いてしまう。
 と言うか、今さり気なくとんでもない事を言われなかっただろうか? 指摘してみると手を動かしながらヒンメルは唇を尖らせる。

「だって最近、ルフレも私も忙しくて一緒に寝れなかったでしょ。だから、たまにはって思ったんだけど」

 はい、とホットミルク入りのマグカップを手渡される。そう言えば、此処最近は二人とも忙しくて一緒に寝るどころか一緒にのんびりとする時間すらも無かったか。
 押し付けられたホットミルク入りのマグカップに口を付け、それを飲み干してしまった時には執務机の上は綺麗さっぱりとしていた。目を通そうと思っていた書類も判を押さねばならない書類も綺麗に整理されて片されてしまい、これでは本当にもう就寝するしか選択がなくなってしまう。
 それもたまには良いか、と空になったマグカップを持って椅子から立ち上がろうとすると、横から伸びてきたヒンメルの手がマグカップを奪ってしまった。

「マグカップの片付け位はさせてくれないか……」

「だーめ。これ洗って戻って来る間にルフレは寝る準備しててね。私も寝支度して来るから」

 やれやれと思いながらも了承すればヒンメルは満足げに笑い、鼻歌を歌いながら執務室を出ていく。彼女がカップを洗って寝支度をして戻って来るまでに自分の寝支度を済ませるかとルフレは椅子から立ち上がり、執務室に隣接されている自身の寝室へと向かった。

 ――きっと今日の夢見は、いつもよりも良いに違いない。


2017/05/22